
2009年6月25日 09:42
■六郷用水とは
2ヶ月ぐらい前だったか「タモリ倶楽部」で、「三田用水の跡を歩く」という企画を放送していた。それを見ていたら、5 年ほど前、私自身が六郷用水を歩いたことを思い出した。
六郷用水は、蒲田、羽田、大森、六郷などの大田区低平地を潤していた灌漑用水だ。徳川家康が1 597 年(慶長2)に造らせたもの。開削にあたったのは小泉次太夫で、1611 年(慶長16)に完成した。多摩川中流の狛江から取水し、川沿いに張り出した武蔵野台地の端を流れ、台地が切れる辺り から東京湾に向けて網目のように水路をはわせていた。その長さは23.2km となる。
しかし、明治20 年代から始まる都市域の拡大に伴い、徐々に水路は埋め立てられ、戦後はそれに 拍車がかかった。現在では、用水は残っておらず、すべて道路や宅地になっており、かろうじて道路 の跡を辿ることで幹線の流れがどのようなものだったのかを知ることができるのみである。かつての 流れも、資料が少ないことから位置の特定が困難なのだが、大田区郷土博物館と市民数名による 「水路の会」というグループが、流れの調査・位置同定を進めている。
■地図の色塗りでわかること
私が六郷用水を歩いたのは、大田区立郷土博物館が催した「六郷用水跡散歩」イベントに参加してのこと。このイベントでは、歩く前に、まず博物館の中で用水についての簡単な説明を聞く。そして、 白地図の色塗り作業を行った。
この白地図には、明治11 年頃の等高線と川筋、村名、村毎の田畑それぞれの町歩数が記されている。それに、以下の順番で5 色の蛍光ペンで色を塗った。
①10 メートルの等高線をピンクで色塗りしていく。
→これで、武蔵野台地の張り出し具合や谷戸がわかる。
②自然水系をオレンジでなぞっていく。
→湧水の水源が、谷戸の奥から流れてくる様子がわかる。
③人工水系を水色でなぞる。
→これが六郷用水だが、幹線が途中で枝分かれし、葉脈のように広がる様がわかる。
④村名の横に田の町歩数と畑の町歩数が書かれている。田んぼが多い村名を緑でマークし、畑の多い村名を黄色でマークする。
→これで、六郷用水一帯が水田地帯であること。また、台地の上は畑作地帯、さらに多摩川に沿った地域は潮の影響等により畑作地帯であったことがわかる。
■「見えない用水」を歩く
午後から、いまは道路等となっている、実際の六郷用水跡を歩くことになった。それが以下のような感じで、六郷用水の幹線だった場所。微妙に曲がっていることがわかる。
六郷用水の幹線から、いくつもの支流に分かれる場所は、通称「蛸の手」と呼ばれていた。
その蛸の手は、現在はJR 京浜東北線・蒲田操車場の中。そこから流れ出る支線の一つが「ね
のかみ掘り」で、その跡がかろうじてわかる場所は、線路沿いの都営住宅の敷地内にあった。
■道路の中之島
この時にしっかりと記憶に残ったのが、下の写真だ。よく見ると、道の行く手をさえぎるように建物が建ち、その両側に道がある。しかも、この道は、その先で合流している。道はどちらももとは用水の支線で、この建物がたつ場所は、いわば道路に残るかつての「中之島」である。
この六郷用水跡歩きは3時間ほどのコースだったが、途中はまったく水が見えない。ただの舗装道の上を歩き、かつての水の流れを想像し、周囲が田畑であったことに思いを馳せるこころみだ。これを、楽しめるかどうかは、まさに想像力が勝負。
それから5年。
週2~3回、自宅から大学に多摩川を遡るように車で移動しているが、二ヶ領用水の跡かな?とか、昔の排水路かな?と思われる曲がった道が目につく。いずれしっかりと歩いてみるつもりだが、と にかく水は奥が深い。
この記事へのコメント
はじめまして、「六郷用水の会」・加藤です。
先生の地域活動に関する活動は、いつも参考にしております。
六郷用水について、郷土博物館や「水路の会」が中心に調査・研究していましたが、2010年4月に「六郷用水の会」が発足し新たな展開が始まっています。
先生は大田区在住とのこと、会運営のご支援ご鞭撻の程、お願い申し上げます。