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グローバル化は足元からやってくる ~国際学で切り取る世界と社会~

映画で観る世界と社会

2018年4月12日 13:01

観光地はお姫様の物語を求めている?: 映画『ローマの休日』で再プロデュースされたローマ

ローマを訪れると気分は「オードリー・ヘプバーン」という方もおられるでしょう。観光地が外国人(よそ者にとって)訪れるべき「場」となるには、そこに惹きつける大きな物語が必要なのかもしれません。

『ローマの休日』(原題 Roman Holiday)

制作国 米国
制作年 1953年
監督 ウィリアム・ワイラー
出演 オードリー・ヘプバーン、グレゴリー・ペック、エディ・アルバート
受賞 アカデミー最優秀主演女優賞(オードリー・ヘプバーン)

あらすじ
【1950年代のローマ。伝統ある某国の王女アンは、欧州諸国を歴訪中、最後の訪問国イタリアのローマでストレスから市内に「お忍び」で抜け出してしまう。直前に医者に睡眠薬を処方されていた王女は町を探索するまでもなく路傍のベンチで寝てしまう。そこに米国人ジャーナリストのジョー・ブラッドレーが通りかかり、王女を「酔っ払っている」町の娘だと勘違いする。タクシーで送り届けようとするが、運転手に拒否され、彼の部屋で休ませることになる。翌日、ジョーは、出社すると王女が「病気」であることが写真付で報じられており、彼女の素性を知ることになる。ジョーは、王女の独占インタビューをものにしようとローマ観光に連れ出すことにする。しかしながら、時間を共有する中で、2人は共に相手に対する特別な感情が芽生えてくる。】

早稲田大学エクステンションセンターの「映画からみるヨーロッパ」という講座で、本作品を取り上げるため観直しました。

実は、2015年1月14日付の当ブログにて本作品を論じているのですが、私はその後、ローマを訪れています(ローマについては2017年1月 4日付で言及)。4,5回目のローマでしたが、その時もローマは観光客で溢れていました。

ただ、改めてこの映画を観ると欧米から(日本から)の観光客は、この映画『ローマの休日』を観たことがある、もしくは「知っている」人が少なくないように思えます。

何よりもローマの人々が(特に観光に携わる人は)、この『ローマの休日』を意識していることでしょう。

「スペイン広場」、「コロッセオ」、「サンタンジェロ城」、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会にある「真実の口」、全て古い観光スポットですが、同時に1953年の米国映画である『ローマの休日』によって世界的に再プロデュースされているのです。

言い換えれば、この映画に映し出されるローマは、米国人からみたローマのステレオタイプでもあります。

もっとも、観客側がこの映画を観なければ(話題にならなければ)、観光スポットも再認識されないでしょう。ウィンウィンの関係でもあります。

そう考えますと、観光地には、このような「物語」が求められているということになるのかもしれません。

2018年4月 4日 09:40

男女(は別)論はどこまで当てはまるのか? : 映画『恋と愛の測り方』の様々な測り方

心と体は別なのでしょうか。

『恋と愛の測り方』(原題 Last Night)
制作国 米国
制作年 2010年
監督 マッシー・タジェディン
出演 キーラ・ナイトレイ, サム・ワーシントン

あらすじ
【ニューヨーク在住のマイケルとジョアンナは、結婚3年目。マイケルは不動産関係、ジョアンナはファッション誌の記事を書くフリーライターで2人ともキャリア志向。そのような中、夫婦で行ったパーティで、ジョアンナはマイケルが同僚の女性ローラと浮気しているのではないかと疑い始める。直後にマイケルはローラと共に遠方に出張に行くことになり、マイケルとジョアンナは言い争ってしまう。出張中、マイケルは逆にローラを意識するようになり、ジョアンナもマイケルが不在中にフランス人の元彼で作家のアレックスと再会し、意気投合することになる。2人はそれぞれ別のパートナーと1日を過ごし、異なる選択をした後に自宅に帰っていく。】

この作品は、結婚3年のジョアンナとマイケルの「時間」(愛の安定)とジョアンナとフランス人の元彼アレックスと「瞬間」(恋のときめき)が主題になるのでしょうが、付き合って4年目、結婚3年のジョアンナとマイケルの「時間」があまり描けていません。

それに加え、夫マイケルがあまり「良い男」ではないように感じます。

反対に、妻ジョアンナは、一線を越えず、元彼であるアレックスを振ってしまうのですが、どう考えても、フランス人作家のアレックスのほうが夫マイケルよりも男として魅力的なのです。

もし、妻ジョアンナがアレックスを振る理由が、夫マイケルとの共有された「時間」であるならば、まず、その重要性を描かないと説得力がないように考えます。

しかしながら、妻ジョアンナは元カレと「浮気」したという解釈もあります。

あるブログでは、『男は「体」で、女は「心」で浮気する』という説でこの映画を切っていました。そう考えると、妻ジョアンナも夫マイケルも「浮気」したことになり、フランス人作家のアレックスだけが「浮気」していないことになります。

面白い見方ですけれど、非常にアンフェアです。マイケルは「男」なので「浮気」したことになります。しかし、男女平等とし、「心」の規準で考えれば、「浮気」した後、良心の呵責に苦しみ自宅に飛んで帰る夫マイケルは「心」は「浮気」していないことになり、そして、ジョアンナとアレックスは一線を越えていないにもかかわらず、「浮気」したことになります。

もし、本作が「浮気」とは何かを再考することを目的としているとすれば、成功しているのかもしれませんが、簡単に男女論にしていいのでしょうか。

2018年4月 1日 22:43

まるで「ルパン三世」: 映画『目撃』が示す泥棒が「正義の味方」になる条件

泥棒が物語において「正義の味方」になるには、泥棒としての厳しいキャラ上の制約があります。

『目撃』(原題Absolute Power)
制作国 米国
制作年 1997年
監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド, ジーン・ハックマン, エド・ハリス

あらすじ
【米国。泥棒を稼業とするルーサー・ホイットニーは、米国大統領アラン・リッチモンドの第一の後援者であるウォルター・サリヴァンの邸宅に忍び込み、財宝を盗み出そうとする。ところが、サリヴァンの妻クリスティとリッチモンド大統領の不倫現場に遭遇してしまい、別室に隠れながら、見守ることになる。すると、リッチモンド大統領がクリスティに暴力を振るい、それにナイフで反撃した彼女を大統領のシークレットサービスが犯罪者と勘違いして射殺してしまう。事件の捜査を担当するセス・フランク刑事は、現場から宝石や現金が盗まれていることから強盗による犯行を疑い、ルーサーを容疑者とするものの、何か納得いかない。そんな中、ルーサーは、大統領が妻を亡くしたサリヴァンと共に事件を非難する会見を観て、憤慨し、事件を暴露することを決意する。しかし、そのことで、ルーサーは大統領のシークレットサービスとの全面的に対立することになる。】

ルーサー・ホイットニーは泥棒なのですが、殺人はしません。富豪を狙うプロフェッショナルな泥棒です。自分の身がシークレットサービスに狙われており、危ないと分かっていても、娘のためなら命を懸けて駆けつけます。盗んだ財宝も、納得がいかなければ全部元に戻します。

漫画のようなキャラなのです。まるで「ルパン三世」のようです。

彼にとって盗みは仕事ですが、仕事以上に守るべきものがあり、それは家族(娘)であり、人としての道なのです。

盗みはいけないことなのですが、その盗みを補ってもルーサーの魅力を削がないために、本作では大統領の犯罪が用いられます。

ルーサーは、大統領の犯罪を「目撃」することで、自分の泥棒稼業を諦め、「正義の味方」に転じるのです。しかし、それは国家天下というよりも、個人的に放置するのが気に入らない(看過できない)というだけの話です。

しかしながら、結果として大怪盗が、シークレットサービスに命を狙われながらも「正義の味方」になっていくところは、非常にドラマチックです。

筋はちょっと大掛かりなのですが、クリント・イーストウッド氏が演じる怪盗ルーサーの姿は、それでも絵になっています。

2018年3月24日 02:09

独裁は私的領域を奪っていく: 映画『太陽に灼かれて』における「公」と「私」

恋愛映画なのですが、独裁とは何かを深く考えさせられます。

『太陽に灼かれて』(英題 Burnt by the Sun)
制作国 ロシア
制作年 1994年
監督 ニキータ・ミハルコフ
出演 オレグ・メンシコフ, インゲボルガ・ダクネイト, ニキータ・ミハルコフ

あらすじ
【1936年ソ連、モスクワ郊外の別荘地。ロシア革命の英雄コトフ大佐は、妻マルーシャと一人娘のナージャ、そして旧友たちと休暇を過ごしていた。そのようなある日、ドミトリというかつてマルーシャの恋人だった謎の男性が大佐の家に現れる。ドミトリは、昔、軍人としてコトフ大佐に仕えていたが、大佐によってマルーシャとの関係を引き裂かれたことを「物語」として皆に語る。真実を知り、マルーシャは夫である大佐を責めるが、大佐の愛に理解を示すようになる。しかし、実は、スターリンを崇拝する秘密諜報員であったドミトリは、コトフ大佐をスパイとしてでっち上げ、大佐の逮捕を実行する。】

恋愛映画としてみればマルーシャを巡る三角関係なのですが、そこにスターリン時代の粛清が絡みドラマが展開していきます。

近隣の農民にも好かれ革命の英雄コトフ大佐は、一見、被害者として描かれます。愛国者で模範的共産主義者である大佐は、外国に通じたスパイとしていわれのない罪を着せられ、ドミトリによって逮捕されます。

つまり、ドミトリは、かつての恋人を奪ったコトフ大佐を、政治力を用いて陥れ、復讐するのです。

しかしながら、コトフ大佐もかつて、部下ドミトリを政治的にマルーシャから遠ざけ、マルーシャを自らの妻としているのです。その詳細については描かれておらず、微妙なところもありますが、いずれにしても、政治力を用いてドミトリの人生を翻弄したのは確かです。

ここでは、「公」と「私」の関係が、浮かび上がってきます。ドミトリもコトフ大佐も「私」の利益(私欲)を「公」の権力を用いて行っているという共通性があるのです。

政治における「独裁」とは、実は、この映画のように人々の「私」の領域を、直接的に、間接的に奪い悲劇を生み出すものなのです。

スターリン独裁のケースでは、実のところ、英雄コトフ大佐の存在は(2人のツーショット写真が作中、いみじくも数回、映し出されるのですが)、単にスターリンに対峙するものではなく、崇拝という形で「私」領域を奪うという点においてスターリンとの類似性があるのです。

最後に、2人の男性に私的領域における「幸せ」を奪われた(かつてのドミトリの恋人であり、現コトフ大佐の妻)マルーシャはどうしたらいいでしょうか。

彼女は、「太陽」(独裁者)に灼かれながら(翻弄されながら)政治に塗れた2人を(もしくはいずれかを)愛し続けるのでしょうか。それとも、政治的に2人に復讐するのでしょうか。もしくは、「太陽」を敵視するのでしょうか。

2018年3月14日 04:04

美しさは努力で作られるものではないのか?: 映画『ベニスに死す』が投げかける「美しさとは何か」という問い

「先生、やっぱり、女性は見た目なんですよ」と自分で自分は美しくないと決めつけているある女子大生から言われたことがあります。その答えが、YesかNoかは別として、問い自体は、女性に限定するものではなく、普遍的なテーマかもしれません。

『ベニスに死す』(原題 Death in Venice)
制作国 イタリア
制作年 1971年
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
出演 ダーク・ボガード, ビョルン・アンドレセン
あらすじ
【1911年、イタリアのヴェネチア(ベニス)。体調を崩し、静養に訪れた有名なドイツの老作曲家のアシェンバッハは、宿泊先の高級ホテルで偶然、見掛けた少年タジオに一目で心を奪われてしまう。タジオへの思いは日に日に増していくアシェンバッハだったが、何もできず、遠くで見つめるに過ぎない。そんな中、ヴェネチアは謎の疫病が蔓延し、多数の死者が出てしまう。アシェンバッハはタジオを残して、ヴェネチアを去るに去れない。ついに、アシェンバッハも病気に感染し、死を迎える。】

ドイツの文豪トーマス・マンの代表作の一つであり、巨匠ヴィスコンティ監督によって撮られたこの映画も名作とされています。

簡単に言ってしまえば、ドイツで有名な男性老作曲家が、イタリアのヴェネチアでタジオというスラブ系美少年に一目惚れしてしまう話です。

同性愛と言えば、同性愛なのですが2人の間に肉体的にも精神的にも交流はありません。一方的に、老作曲家が「恋」をするのです。

ストーリーは単純です。しかしながら、それではなぜ、この映画(小説)が名作となっているかといえば、ちょっと屈折した視点ながら「美しさとは何か」という永遠の問いが、投げかけられているからでしょう。

映画では芸術を言葉や音楽で語ってきた老作曲家が(原作では理屈を語ってきた作家が)、年甲斐もなく若い少年に一目惚れし、結果として疫病の流行るヴェネチアで命を落とします。それは、悲惨というよりも、むしろ滑稽であり、哀れなのです(テーマは、同性愛ではなく、観客が少年の美しさを認めるかどうかも、重要ではありません。むしろ、そうではないと思ったほうが、滑稽さと哀れさが増します)。

作曲家は、友人の男性に、「(美しさを人工的に創り上げてきた)芸術家の努力は無意味なのか?」と問います。友人は、「美しさは自然に発生するもので、努力ではない」「芸術家の自負以前に存在する」と断言します。

作曲家は、身をもって敗北します。

努力や理屈によって創出された「美しさ」、もしくは人間性という物語によって装飾された「美しさ」ではない、剥き出しの(作曲家にとっての)「美」に負けるのです。

ただ、疫病で華麗なヴェネチアが朽ちていく中、「ヴェネチアでの死」を選んだ老作曲家は、自分を笑いながら、幸せそうでもあるのです。

疫病とシンクロする「美」。ホラーよりも怖い作品です。

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プロフィール
安井裕司
安井裕司
エジンバラ大学、バーミンガム大学博士課程に学ぶ。その間、ルーマニア・アカデミー歴史学研究所研究生。国際政治学博士(PhD)。国連大学国際紛争研究所インターン、夏期講習クラスコーディネーター、法政大学国際日本学研究所客員研究員等を経て、現在、早稲田大学エクステンションセンター講師、日本経済大学神戸三宮キャンパス教授。
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