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グローバル化は足元からやってくる ~国際学で切り取る世界と社会~

映画で観る世界と社会

2017年11月 6日 00:00

子供の頃の思い出も、大人になれば美化される: 映画『やかまし村の春・夏・秋・冬』におけるステレオタイプ

大人になると子供時代の思い出は、無意識に美化されているのかもしれせん。

『やかまし村の春・夏・秋・冬』(原題 Mer om oss barn i Bullerbyn)
制作国 スウェーデン
制作年 1987年
監督 ラッセ・ハルストレム
出演 リンダ・ベリーストレム, アンナ・サリーン, ヘンリク・ラーソン

あらすじ
【『やかまし村の子どもたち』(1986年)の続編。舞台は、1930年代のスウェーデンのスモーランド地方。わずか3軒(北屋敷、中屋敷、南屋敷)しか無い田舎村・通称「やかまし村」には女の子4人、男の子3人の子供たちがいる。中屋敷の長女リーサの眼を通して、物語が語られていく。前作の夏休み明けで終わったところから始まり、秋から冬と季節は巡り、クリスマス、大晦日、ニューイヤー、そして春が訪れる。】

前作は、子供たちのひと夏の思い出が描かれていました。当ブログ、2016年3月21日付で記しました通り、原作者の(『長くつしたのピッピ』シリーズで有名な)アストリッド・リンドグレーンの思い出が理想化されています(2作ともリンドグレーンが脚本を担当している)。

そして、その美しい自然は、「スウェーデンの田舎」のステレオタイプを象徴するようになり、「ブラビィ・シンドローム」と呼ばれているのです。

そのような見方があることを差し引いても、この作品は子供たちの目から見た日常が生き生きと描かれています。

何もない日常の中での季節の変化、クリスマスや年越しのわくわく感が子供たちの表情から伝わってきます。

いつの間にか大人は、子供時代のわくわく感を失ってしまうのでしょうか。もちろん、大人になればプレゼントを貰う側から、あげる側に役割が変わったとも言えますが、本作を観れば、直ぐに昨日のことのように思い出したような気分になります。

そう考えると、この映画は大人のためにあるのでしょう。

そして、「スウェーデンの田舎」のステレオタイプであると同じく、この映画は「子供時代」のステレオタイプなのかもしれません。

そこには、嫌な思い出は原則として描かれません。

確かに、子供の頃、クリスマスも大晦日も楽しかったのですが、本当は友達と喧嘩したり、先生や両親に怒られたり、テストが悪かったり、多かれ少なかれ誰にでもあると思うのです。しかし、「やかまし村」は、セピア色の理想の(スウェーデン人以外にとっては異国の)子供時代なのです。

それでも良いと考えるか、やはり、これは虚像だと考えるかで作品の捉え方が大きくことなるのではないでしょうか。

2017年11月 4日 17:19

君とお金のために結婚するのではない: 映画『静かなる男』における持参金というプライド

理想の「持参金」とは何かを考えさせられます。

『静かなる男』(原題 The Quiet Man)
制作国 米国
制作年 1952年
監督 ジョン・フォード
出演 ジョン・ウェイン, モーリン・オハラ

あらすじ
【1950年代のアイルランドの田舎村イニスフリー。その村で生まれ、米国で育った青年ショーンは、米国でボクサーをしていたが、引退し、村に帰ってくる。彼は自分の生家を金持ちの後家ティレーンから購入したが、その家を欲しがっていた隣接する地主レッド・ウィル・ダナハーの怒りを買ってしまう。そのような中、ショーンが一目ぼれした女性がレッドの妹メリー・ケイトであることが判明する。ジョーンは、意を決してメリー・ケイトとの交際と結婚を申し込むが、兄レッドに反対されてしまう。村人の協力があって2人は何とか結婚したが、レッドはメリー・ケイトの持参金を払わない。メリー・ケイトはショーンに力づくで、レッドと闘って欲しいが、レッドはボクシングの最後の試合で人を殺してしまい、以降、人を殴れなくなっていた。そんなことも知らないメリー・ケイトは、自分のために戦わないショーンを批判し、家をでる。】

米国を代表する俳優ジョン・ウェインと米国を代表する監督ジョン・フォードのコンビ作品です。2人はアイルランド系米国であり、アイルランドの田舎に帰る米国人ボクサーの物語を描きます。

この作品では、メリー・ケイトの結婚の際の「持参金」が需要な役割を担います。彼女は、ショーンと結婚するのですが、(家具と)「持参金」の支払いを兄が拒絶し、彼女自身も「結婚生活」を送れないと言い出します。

それに対し、米国育ちのショーンは、「君だけで十分だ」、「お金のために、君と結婚したいのではない」と彼の「米国的」価値観を語ります。

しかしながら、メリー・ケイトは、(家具と)「持参金」が自己の証明であり、自分と切り離すことができないと主張します。

そこには、自分にお金を付け足すようなネガティブさはなく、自分が自分の所有物を奪われているというような感覚なのです。

ネタバレですが、ショーンは「持参金」をレッドから奪い、その場で燃やしてしまいます。メリー・ケイトもそれを「勿体ない」と思わず、意気揚々と帰宅していくのです。

彼女にとって「持参金」とは、お金ではなくプライドであったことが分かります。それは、結婚するための不可欠な要素であり、一度、獲得すれば、燃やしてもいいのです。むしろ、兄がなかなかくれなかったことで、燃やしてしまったほうが、ジョーンやメリー・ケイトのプライドが満たされることにもなります。

「持参金」を燃やすことで、本当のプライドを持ち帰る姿に、(実際にアイルランド人がそのような選択をそうするかどうかは別として)米国人が想像する理想としてのアイルランド性があるのかもしれません。

2017年10月30日 19:29

年を経ても「青く」てもいいのでは?: 映画『ビフォア・サンセット』における「大人であること」の矛盾

年を経ても、カップルが学生のような会話を交わしても良い(状況もある)ような気がします。

『ビフォア・サンセット』(原題 Before Sunset)
制作国  米国
制作年  2004年
監督 リチャード・リンクレイター
出演 イーサン・ホーク, ジュリー・デルピー

あらすじ
【1995年、米国人青年ジェシーは、ブタペストからウィーンへの列車で偶然出会ったフランス人女学生セリーヌと意気投合し、翌日の帰国のフライトまで、ウィーンの街を歩き一夜を過ごす。半年後、ウィーンで会おうと約束しながら別れるが、2人の再会できない。9年後、米国で作家になったジェシーは、あの日の夜のことを小説として出版し、プロモーションでパリを訪問する。パリの書店での出版記念記者会見の場に、突然、セリーヌが現れる。2人はなぜ、1995年の半年後にウィーンで会えなかったのかから語り始める。】

当ブログ2017年9月12日付で記しましたが、前作『恋人までの距離』(原題 Before Sunrise)は、それ自体、作品として完結しているとして観るべきなのです。なぜならば、続編を作るならば、別れてから半年後、ウィーンで再会できなかったことからしか展開できないからです(会っていたら、「2人は晴れて結ばれました」で終わってしまいます)。

その上で、本作を論じるとすれば、2人の展開は、残念ながら「恋人までの距離」を詰めようとした前作の2人のようなときめき感には欠けると言わざるを得ません。

セリーヌは、ウィーンでジェシーに会って別れた後、自分は恋愛で失敗続きだったと語ります。ウィーンの一夜で自分のロマンティズムを全て使い果たしたと。結婚しているジェシーも恋愛関係ではなく、育児のパートナーとなった妻との関係を吐露します。

そして、ジェシーはセリーヌの部屋を訪れますが、その後、2人の関係がどうなったかまでは描かれません。おそらく、多分。

この流れは、むしろ自然かもしれませんが、もし、2人が過去に戻りたいと思うなら、もう一度、パリで、一夜を語り明かしても良かったような気がします。

もちろん、恋愛の形に「答え」はありませんが、前作の流れから考えれば彼らが求めているものは、「普通」の男女関係ではなく、時間の限定性の中で、いかに言葉で2人の距離を縮めるかであったように思えるのです。

前作で、2人はくどい程、語り合います。語って、語って語り尽くすのです。言葉で「距離」を縮める方法は、もしかしたら、男女関係においては、ある意味で「遠回り」かもしれません。でも、それが、あの2人を輝かせていたように思えるのです。

9年後、2人は9年の年をとります。だからこそ、もっと面白い大人の会話ができたのではないでしょうか。もしくは、ウィーンの一夜と全く同じような学生時代のような「青い」会話でも、それはそれで味が出たのではないでしょうか。

2017年10月27日 23:31

もし、全ての電気が使えないとしたら: 映画『サバイバルファミリー』が示す価値観の転換

価値観の転換がある日、突然起こるとすれば、こんな状況なのでしょう。

『サバイバルファミリー』
制作国  日本
制作年  2017年
監督 矢口史靖
出演 小日向文世, 深津絵里

あらすじ
【東京の平凡な一家の鈴木家。父・義之はさえないサラリーマン。母・光恵は専業主婦。長男・賢司は無口な大学2年生。長女・結衣はスマホ依存の高校1年。ある日、突然、全ての電化製品が使えなくなる。それは単なる停電ではなく電気を必要とするもの全てが動かなくなってしまう。オフィスでの仕事もできない父・義之は、大阪は電気があるという噂を信じて、「動かない街」東京を捨てて自転車で西に向う。やっとの思いで大阪についても、電気はなく、食糧も尽きてきた。父・義之はプライドを捨て、土下座までして食料を得ようとしたが失敗し、とうとう畑の豚を捕まえて食べようとした時、飼い主に捕まり、農家の手伝いをすることになる。人の有難みを肌で感じながら、彼らは母・光恵の実家がある鹿児島を目標にして旅を続けることを決意する。】

電気製品及び電気が関わる全てのものが使えなくなったら、という仮定に基づいた作品です。

当然ですが、私たちは電気に依存した生活をしており、生活が180度変化してしまうのです。

都市的な価値はひっくり返り、学歴や職歴は機能しません。自然と協調して、暮らしていける人だけがサバイバルできるのです。

多かれ少なかれ都市(町)でしか「生息」できないサラリーマンの父・義之は、最初から「弱さ」を露呈してしまいます。電気に依存している子供たちも最初は狼狽えますが、親の世代よりは慣れるのが早いのです。

「大人の世界」は、「電気の世界」なのかもしれません。

この作品は、電気社会の脆さを描きます。ただ、同時に、電気が無くならない限り、「大人の世界」の秩序は壊れないことにもなります。そして、(私も含めて)多くの大人は、この秩序を守ろうとするでしょう。

そう考えますと、電気社会とはどういうものかが見えてきます。

ただ、大人が全て同じではないです。映画の中に、時任三郎さんと藤原紀香さんが夫婦を演じる自然に順応した生活を送るかっこ良い一家が出てきます。彼らは、大人ですが、停電になった日本の生活を謳歌しているのです。

しかしながら、時任さんと藤原さんがあまりにもかっこ良く、むしろ、リアリティに欠けるように感じます。反対に、小日向文世さんが演じる父・義之は、とてもリアルで、他人ごとだとは思えない「痛さ」があるのです。それは、私の立ち位置を示しているだけかもしれませんが。

2017年10月24日 00:06

「人を傷つけない」戦いならば許されるのか?: 映画『未来を花束にして』における民主主義と暴力

民主主義と「暴力」の関係を考えさせられる作品です。

『未来を花束にして』(原題 Suffragette)
制作国  英国
制作年  2015年
監督 サラ・ガヴロン
出演 キャリー・マリガン, ヘレナ・ボナム=カーター, ベン・ウィショー

あらすじ
【1912年のロンドン。主婦モード・ワッツは、洗濯場で働きながら夫サニーと幼い息子ジョージの3人で暮らしている。仕事は、長時間で低賃金であったが、それ以外、選択肢がないと考えていた。そんな中、モードは、洗濯ものを届ける際、洋品店のショーウィンドウを覗いていたところ、女性参政権を求め活動する女性社会政治同盟(WSPU)の過激行動に遭遇する。そこで、初めて「サフラジェット」と呼ばれる女性参政権運動の活動家の女性たちと出会い、モードは、これまでの生き方に初めて疑問を持つ。その後、WSPUのリーダー、エメリン・パンクハーストの演説を聞き、デモにも参加し、女性参政権運動にのめり込んでいく。しかし、平凡な幸せを求めるモードの夫は、モードの活動に反対し、家から彼女を追い出し、息子と引き離してしまう。更に、職場でも解雇され、モードはWSPUだけが拠り所となっていく。】

英国の女性参政権運動をテーマとした作品です。

この作品の中で、主人公と主人公のWSPUの友人たちは、電話線の切断、投石、爆弾、放火、器物破損等の今ならば「テロ行為」と言われても仕方ないことを行います(「テロリストと呼ばれた女性たち」『英国ニュースダイジェスト』,2017年3月2日)。

ただし、彼女たちは、基本的に「人を傷つけない」戦いを展開しており、現在のテロとは異なる要素も多分にあります(NHK ch.18「映画『未来を花束にして』女性が参政権を得るまでに」2017年1月16日)。

しかしながら、ダイレクトアクションであることは変わりなく、英国では(女性)参政権という民主主義の根本が、ダイレクトアクションによって導かれた(もちろん、それだけではないですけれど、この映画の筋ではそうなります)ことを直視させられます。

私たちは、民主主義と「暴力」を二項対立に捉えてしまいますが、民主主義に内包される「暴力」を考えることも必要なのかもしれません。

その上で、これ以外の方法では女性参政権を獲得できなかったのか、果たして、本当にダイレクトアクションが民主主義を生み出しているのかを再考することも重要であることでしょう。

極めて感覚的で恐縮なのですが、この作品を観ながら考えざるを得なかったことは、何か、政治の「正論」とは別のところで社会は変化してきたような感じもするのです。

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プロフィール
安井裕司
安井裕司
エジンバラ大学、バーミンガム大学博士課程に学ぶ。その間、ルーマニア・アカデミー歴史学研究所研究生。国際政治学博士(PhD)。国連大学国際紛争研究所インターン、夏期講習クラスコーディネーター、法政大学国際日本学研究所客員研究員等を経て、現在、早稲田大学エクステンションセンター講師、日本経済大学神戸三宮キャンパス教授。
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