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グローバル化は足元からやってくる ~国際学で切り取る世界と社会~

映画で観る世界と社会

2018年10月11日 00:22

映画が社会の固定観念を変える: 映画『おくりびと』の社会的インパクト

映画の力もまだ捨てたものではない、と思わせてくれた作品です。

映画『おくりびと』
制作国 日本
制作年 2008年
監督 滝田洋二郎
出演 本木雅弘, 広末涼子, 山崎努

あらすじ
【東京の管弦楽団のチェロ演奏者だった小林大悟は、楽団が解散してしまい失業する。音楽の道では食べていけないと、妻・美香と共に自分の故郷の山形県酒田市へ帰ることにする。酒田で、仕事を探していると、新聞の求人広告で「旅のお手伝い」と書かれたNKエージェントの求人広告を見つける。旅行代理店だと考え、面接を受けに行くと、業務内容は人生の「旅立ち」を助ける納棺であった。困惑する小林を、NKエージェントの社長である佐々木は、強引に入社させてしまう。帰宅し、妻に仕事内容を聞かれた小林は、「冠婚葬祭関係」としか言えなく、妻にも黙って納棺の仕事を始まることになる。紆余曲折ありながらも、小林が仕事になれてきた頃、小林が納棺の仕事をしていることが、妻や友人たちにばれ始め、旧友の山下からは「もっとましな仕事に就け」と言われ、妻・美香からも「そんな汚らわしい仕事は辞めて」と迫られ、仕事を続けていると美香は実家に帰ってしまう。】

「職業に貴賎無し」と言いながら、人気のある仕事と、人気のない仕事があります。給与の高い仕事は総じて人気がありますが、この物語では、給与が高いにもかかわらず、人気のない(この映画はヒットするまではなかった)納棺師がテーマです。

なぜ、納棺の仕事が人気がないか(なかったか)と言えば、人の死に係る仕事であるからでしょう。不思議なことに、人間が誕生する際のお助け人である産婦人科の医師や助産婦は人気のない仕事ではないのです。人は生まれて、死ぬのに、なぜ死ぬ時の仕事は、生まれてくる時の仕事と認識が異なるのでしょうか。

この世に生み出されることにポジティブさがあるのに、この世から(死に)行く場合は穢れに結び付くネガティブさがあるのです。

哲学的・文化人類学的な議論は別として、そんな納棺の仕事を「おくりびと」という新しいコンセプトで提示したこの作品は、人々の固定観念を変えることに成功したと言えるでしょう。

さて、それでも、納棺師の仕事は高給です。だから、(固定観念を変えるのは難しかったとはいえ)考え方次第でもあったかもしれません。

単純労働で低賃金のケースで、人々のイメージを変えるような映画が作れるでしょうか。更に、映画の可能性を模索してみたくなりました。

2018年10月 6日 21:20

日本人にとってチンギス・ハーンとは何か?: 映画『蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜』が描く日本版の英雄チンギスハンの姿

ある外国の映画を何本が観れば、その国の何かを多少でも掴むことができると考えます。もしある国で(日本で)、外国の物語を(日本語で)映画化したとすれば、その国(日本)と外国の関係の何かが分かることになります。

映画『蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜』
制作国 日本
制作年 2007年
監督 澤井信一郎
出演 反町隆史, 菊川怜, 若村麻由美, 袴田吉彦

あらすじ
【12世紀、ボルジギン氏族の族長イェスゲイは少人数ながら武力で名を馳せていた。彼は宿敵であるメルキト族族長の妻ホエルンを奪い自分の妻とすると、直後に長男テムジンが生まれる。テムジンは、ボルジキン族の始祖である「蒼き狼」の生まれ変わりとして期待を背負って育った。しかし、テムジンが14歳の時、父イェスゲイがタタル族に毒殺されてしまう。イェスゲイの後を継いだ新しい族長は、テムジンに仇敵メルキト族の血が流れている(可能性がある)という理由から、全部族長の妻ホエルンやテムジンと弟たちを見捨てる。苦境の中で、テムジンは成長し、やがて武力によって一家を立て直し、ボルテという美しい女性と結婚するが、宿敵であるメルキト族の襲撃を受け、ボルテを奪われてしまう。やがて、テムジンはボルテの幼馴染で(テムジンと義兄弟の契りを交わした)武将ジャムカと力を合わせ、メルキト族を叩き、その他の各部族を従えていくようになる。テムジンの力が大きくなると、やがてジャムカがテムジンから離れていく。】

原作は、森村誠一氏の『地果て海尽きるまで-小説チンギス汗』であり、映画も日本資本(角川)による日本人の監督、俳優によるチンギスハーン物語です。

この作品は、公開されました2007年において、「文春きいちご賞」、スポーツ報知主催の「蛇いちご賞」というその年の最低作品を決める賞を総なめしています。興行的にも失敗してしまい大赤字です。

しかしながら、日本人が描いたチンギスハーン像ということで、モンゴル映画のチンギスハン、中国映画のチンギスハン、欧米映画のチンギスハーンというチンギスハン映画史の中では、貴重な作品になるかもしれません。

モンゴル帝国の創始者でありますチンギスハーンは、様々な顔があるべきでしょう。モンゴル史においても時代によって変わりますし、被支配地域であるモンゴル外からの姿も七変化していて然るべきなのではないでしょうか。

日本はその中で、「チンギスハーン=源義経説」があった程、人々はチンギスハーンを比較的に身近な存在に認識していると言えます。

本作が映画として成功しなかったことは否定できないにせよ、少なくとも(日本人がチンギスハーンを演じる)このような作品が作られたという事実は、日本人がチンギスハーン物語を内在化している顕れであるように思われます。

2018年10月 1日 12:24

モンゴルの「アルプスの少女ハイジ」: 映画『天空の草原のナンサ』が描く、遊牧民の脱遊牧の過程

モンゴル版の『アルプスの少女ハイジ』のような本作品です。

映画『天空の草原のナンサ』(英題: The Cave of the Yellow Dog)
制作国 ドイツ
制作年 2005年
監督 ビヤンバスレン・ダバー 

あらすじ
【モンゴルの遊牧地。遊牧民の家庭に育つ6歳の少女ナンサは、父と母と2人の兄弟の5人で、大自然の中に暮らしている。ある日、ナンサは草原で小犬をみつける。近年、遊牧を辞める人によって飼い犬が捨てられ、野犬化しているが、父親は「野犬は狼を引き寄せる」と言って犬を飼うことを反対する。どうしても、犬が捨てられないナンサは黙って犬にツオーホルという名前を付けて飼い続ける。そのような中、父親と母親は遊牧生活を辞めて都会で働くことを決意する。ゲルを解体し、都会へ引っ越す日、ツオーホルは遊牧地に置いて行かれるが、迷子になったナンサの弟を助けることで状況が変化する。】

1989年の民主化以降、モンゴルでは60万人の遊牧民が遊牧を辞め首都ウランバートルになだれ込んでいると報じられています( "Nomads no more: why Mongolian herders are moving to the city", The Guardian, 5 Jan 2017)。

本作品は、2005年の製作ですが、多くの遊牧民が遊牧を辞めて大都市に「移動」していることを、物語から窺い知ることができます。

ナンサが拾った子犬ツオーホルも、おそらく、都会に出て行った遊牧民が捨てた犬であり、その犬を飼うことは自分たちも都会に行くことを決意している両親にとっては受け入れられないことになります(理由は、犬がいると狼が来てしまうということになっていますが)。

ナンサは、単に犬が好きなだけなのですが、その純粋さが、大自然に育まれた生活を捨てることがどういうことを意味しているかを十分に表現しているのです。しかし、それでも、大人たちは、遊牧生活を捨てる選択をするのです。

ネタバレですが、ナンサの一家はツオーホルを引き連れて都会に行くことにします。

どれ程、大自然が素晴らしくとも、現代社会の中で、遊牧民の人たちの都市に行きたいという気持ちを否定することはできないでしょう(特に先進国の大都会に住んでいる人間が、遊牧民の都市化を批判することは矛盾します)。とすれば、子犬が「象徴する大自然」を抱えて、都会に行き、シンボルとしての大自然を忘れずに愛していくしかないように思えます。

おそらく、先進国においても、自然とはこのようにして都会でシンボル化していくのではないでしょうか。

子犬と少女のストーリーですが、モンゴル社会の変化を捉えた、とても示唆に富んだ素晴らしい物語です。

2018年9月26日 00:00

ラクダの親子を本当の親子にする馬頭琴の音色: 映画『ラクダの涙』が描く伝統と近代

ある国(地域)を理解する方法として、その国(地域)をテーマとした映画を何本か(何十本か)観ることも良いのではないかと考えています。

映画『ラクダの涙』(英題: The Story of the Weeping Camel)
制作国 ドイツ
制作年 2003年
監督 ビヤンバスレン・ダバー , ルイジ・ファロルニ

あらすじ
【モンゴル、ゴビ砂漠。4世代9人の遊牧民の家族が何十頭のラクダと共に暮らしている。今年も、ラクダの出産の季節になったが、最後に生まれた1頭が難産で2日もかかった。出産後、なぜか母ラクダは生んだばかり子ラクダを育てることを拒否してしまう。遊牧民一家は、とりあえず、乳を搾って、子ラクダに与える。しかしながら、抜本的な解決にならず、曾祖父さんと御祖父さんは、「フースの儀式」という馬頭琴を用いた治療を決断する。一家は都市に子供2人を行かせ、馬頭琴を弾ける伝統音楽家を連れてこさせる。子供たちは町のテレビやゲームに惹きつけられながらも、役目を果たす。翌日、親子のラクダの前で、音楽家が馬頭琴を演奏し、それに合わせて女性(お母さん)が歌を歌い出すと、徐々に親子ラクダは「親子」の絆を感じ始め、母ラクダは、涙を流しながら子ラクダに乳をあげるようになっていく。】

ドイツのミュンヘン映画・テレビ大学に留学していたモンゴル人とイタリア人学生の卒業作品なのですが、同作品は2004年の米国アカデミー賞最優秀ドキュメンタリー部門にノミネートされるほど、国際的に高い評価を得ました。

監督の1人はモンゴル人でありますが、ドイツ映画であり、前提として「外からの目」でモンゴルの遊牧民の生活を撮っていることは事実です。しかしながら、「外からの目」は全く、作品の質を落とさず、むしろ、モンゴル人の監督が「外」から遊牧民の生活をフェアに観ていることがわかります。

上記の通り、この作品では、馬頭琴の音色によって2頭のラクダが「親子」になることがクライマックスなのですが、同時に遊牧民の環境が近代化されていく過程も映し出しています。

都会に使いに行った遊牧民の2人の子供たちはテレビやゲームに夢中になってしまい、祖父や曽祖父にテレビを買ってくれとせがみます。最初は断っていた大人たちも最後は根負けして、大きな衛星放送用のアンテナとテレビを購入します。

このような遊牧民の生活までも変えてしまう近代化のプロセスを映し出しているからこそ、ラクダの「親子」を「親子」にする馬頭琴の音色がより心に沁みるのでしょう。

伝統(保守)と近代(革新)は二項対立ではなく、むしろ補完的な関係になるのかもしれません。

2018年9月21日 23:12

オマージュがオリジナルの良さを確認させる: 映画『みんな元気』の日米比較

日本と米国の「理想の家族像」の違いを感じる映画です。

映画『みんな元気』(原題: Everybody's Fine)
制作国 米国
制作年 2009年
監督 カーク・ジョーンズ
出演 ロバート・デ・ニーロ

あらすじ
【電線を作る仕事を続けながら4人の子供を育てた老人フランクは、妻に先立たれ、病気を患いながら1人で暮らしている。毎年、子供たちはフランクの元に集まるが、今年は誰も来なかった。それで、フランクは全米各地に住んでいる4人の子供たちに会う旅に出る。まず、ニューヨークに住む画家のデイヴィッドを訪れるが、不在であり(実はメキシコに行っていた)会うことができなかった。次に、広告代理店に勤務するエイミーに会いに行く。エイミーは夫と不仲になっており、更にデイヴィットがメキシコで事件に巻き込まれたことで、メキシコに行かなくてならず、フランクをもてなすことができない。更にデンバーで「指揮者」をしているロバートに会いに出かけるが、ロバートは実際は、指揮者ではなく、一演奏者でしかなかった。更に、ラスベガスでダンサーのロージーに会うが、ロージーも未婚の母になっており、フランクは失意の中、帰路に着くが飛行機で倒れてしまう。結局、メキシコで失くなっていたデイヴィッド以外の家族が集まり、クリスマスを迎える。】

小津安二郎監督の『東京物語』(1953年)へのオマージュです。

細部は異なりますが、期待していた子供たちに親が会いにいきながら、子供たちは親の期待に応えられないため、また多忙のため、(会いたくても)会えないのです。

ただ、最も大きく違うのは、『東京物語』で(原節子さんが演じた)戦死した次男の嫁「紀子」の役がいないのです。

『東京物語』では、子供たちの表面的な冷たさが、紀子の優しさによって救われていきます。実の子供たちよりも義理の娘のほうが「親思い」であるところに、『東京物語』が時代と空間を越えて、半世紀以上も日本、そして世界で評価され続けている大きな理由なのではないでしょうか。

一方、映画『みんな元気』では、「紀子役」を出さないことによって、実の子供たちが親孝行になっていくストーリーとなっています。

日米では家族の理想形が違います。「義理」の親子問題をテーマにした映画は日本以上に多いでしょう。だからこそ、なのでしょうか。本作品において、実の子供たちは、父親の元に(一時的ではあっても)戻っていくのです。

ロバート・デ・ニーロが主人公フランクを演じており、「見せる」映画です。でもやはり、『東京物語』の良さを再確認してしまいました。

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プロフィール
安井裕司
安井裕司
エジンバラ大学、バーミンガム大学博士課程に学ぶ。その間、ルーマニア・アカデミー歴史学研究所研究生。国際政治学博士(PhD)。国連大学国際紛争研究所インターン、夏期講習クラスコーディネーター、法政大学国際日本学研究所客員研究員等を経て、現在、早稲田大学エクステンションセンター講師、日本経済大学神戸三宮キャンパス教授。
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