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グローバル化は足元からやってくる ~国際学で切り取る世界と社会~

2015年2月

2015年2月25日 23:00

先進国の影(幻)としての「イスラム国」

ロンドンに住む15歳の2人、16歳の1人の英国籍の少女3人が「イスラム国」に渡ろうとし、トルコ経由でシリアへ向かったと報じられています。ロンドン警視庁は公開捜索に乗り出し、国家を挙げて3人のシリア入りを阻止しようとしています(既に入国したという報道もあります)。

彼女たちはイスラム系住民が多い東ロンドン地域にあります公立のベスナル・グリーン・アカデミー(中等学校)に在籍している友達同士ということです。

彼女たちが、なぜ、「イスラム国」入りしたいのかの動機は、現段階では分かりません。しかし、彼女たちが例外とは言えない状況となっています。

ロンドン大学キングスカレッジの過激思想研究センター(International Centre for the Study of Radicalisation)によりますと、「イスラム国」や国際テロ組織アルカーイダ系のヌスラ戦線など、イラクやシリアの武装勢力に合流した外国人戦闘員が推計で2万730人に至っており、その内約4000人が西欧諸国出身ということです(産経ニュース、2月7日)。

多くの国では、「イスラム国」を国家として承認せず、名称も「Islamic State of Iraq and Syria」の省略形である「ISIS=アイシス」や「Islamic State of Iraq and Levant」の省略形である「ISIL=アイシル」と呼んでいます(ここでは「」付で「イスラム国」とします)。

「イスラム国」は多くの国から「国家」として承認されていないのですから、「イスラム国」側がどのように主張しようと「国家」ではありません。

しかしながら、それとは別に2万人を超える人々(特に西欧諸国からの4000人)が何を「イスラム国」に求めているのかを考える必要はあります。

彼らが、自らの自由意思によって「イスラム国」入りしたと仮定すれば、彼らは、自国よりも「イスラム国」に自分の存在意義を見出したことになります。

逆に申しますれば、彼らは自国で居場所がなかったかもしれないのです。

「イスラム国」は2万人の外国人で構成されている訳ではありません。しかしながら、「イスラム国」が、2万人の外国人とっては住むべき「国」になってしまっていることを直視し、(たとえ、現在、後悔していたとしても)彼らの動機を考えていかなくてはいけないと思います。

彼らにとって「イスラム国」は、先進国の「影の国」のような存在なのではないでしょうか。「影」を消すには、「イスラム国」の野蛮さを批判するだけでは十分ではありません。先進国である自国において、より良い社会空間を構築し、「影」(幻)を消していくしかないのではないでしょうか。

空爆が唯一の解決方法では無いと考えます。

2015年2月23日 14:33

拝金主義と保守主義が織りなす「シンデレラストーリー」:映画『プリティ・ウーマン』における『マイ・フェア・レディ』性

古典的名作を、現代風にアレンジするリメイク作品があります。

『プリティ・ウーマン』(原題:  Pretty Woman)

制作国 米国
制作年 1990年
監督   ゲイリー・マーシャル
出演   リチャード・ギア、ジュリア・ロバーツ

あらすじ
【米国・ハリウッド。ウォール街の実業家で企業買収に携わるエドワードは、ハリウッドに出張中に、友人の高級車ロータス・エスプリを借りたところ、道に迷ってしまう。そこに偶然、コールガール・ヴィヴィアンが通りかかり、道案内を依頼することになる。エドワードは面白半分にヴィヴィアンを彼の宿泊する高級ホテルに誘う。彼女は今まで見たことのない世界に歓喜し、エドワードはヴィヴィアンの無邪気さと隠れた知性に新鮮さを覚える。翌日、エドワードはヴィヴィアンに1週間、彼のアシスタントを務めて欲しいと依頼する。アシスタントとして、上品な洋服を買いに街に繰り出すが、態度が悪く、貧しそうに見える彼女にどこの店も服を売ってくれず、後日、エドワードと共に出直すことになる。】

この作品は、非常に忠実に『マイ・フェア・レディ』を現代風(1990年風)にアレンジしたものです。

『マイ・フェア・レディ』は綺麗な英語を学ぶことによって、「レディ」となり、社会変動を達成します。『プリティ・ウーマン』は言葉ではなく、お金、経済力です。

リチャード・ギア演じるエドワードは、ヴィヴィアンをコールガールではなく、「レディ」に相応しい洋服を与え、高級レストランの食事にも誘います。

しかしながら、品格に関しては、『マイ・フェア・レディ』のイライザが、最初の段階において品格に欠ける女性として描かれるのに対し、娼婦ヴィヴィアンは最初から人を惹きつける「魅力」を備えています。『マイ・フェア・レディ』で問われる英国風の「品格」は、『プリティ・ウーマン』ではほぼ消えています。

ヴィヴィアンは、魅力的な女性であるが故に、エドワードが一緒に時を過ごしたいと思うのです。そして、エドワードは彼女の魅力に対して、「対価」としてお金を支払い、彼女を「レディ」化することで、関係が成立していきます。

しかし、それは間違いであることに気付きます。『マイ・フェア・レディ』において、綺麗な英語(言葉)を教えるだけでは不十分であると同様に、『プリティ・ウーマン』でもお金だけでは不十分なのです。

エドワードはラストシーンで、本当の「対価」を支払い、シンデレラストーリーが成立します。

お金の力でコールガールを「レディ」にするという、非常に「バブル」の香りが漂う作品ですが、同時に、映画『マイ・フェア・レディ』に忠実であり、とても保守的です。それでも、拝金主義と保守主義が、「おとぎ話」として見事に結合しており、(嫌味ではない)不思議な着地点に至ります。

2015年2月22日 23:28

留学生は「同化」するが故に、「異質」と見なされる

私はとても留学生が多い大学で教えているのですが、「イスラム国」に拘束されていた後藤健二さんと湯川遥菜さんが殺害されたことは、勤務校の留学生たちにとっても、ショックだったようです。

中国出身の女子学生は「後藤さんが亡くなって、とても悲しいです」と言ってきました。彼女が特別かとも思ったのですが、「私だけではなく、皆、悲しんでいます」と続けていました。

日本に留学する学生は、そもそも日本に好意的です。そして、長期留学によって日本に「同化」する度合も大きいと考えられます。私も、長期間、英国に留学しておりましたので、その気持ちが分からなくもありません(サッカーのワールドカップやオリンピックでは、イングランド、スコットランドもしくは英国を「自然に」応援していました)。ある意味で、日本人以上に、(無理に)「日本人化」してしまうようなところがあります。

しかしながら、それでも彼らは日本人にはなれません。むしろ、日本社会では異質な存在として扱われることもあるのです。

先日、(後藤さんの殺害の直後)私の勤務校に学ぶ中国人留学生の何人かが、街中で中国語で話していたところ、日本人の男性に「チャイニーズ、帰れ」というようなことを言われたそうです。

言った方は軽口をたたく感覚であったかもしれません。しかし、言われたほうは傷付くようです。日本が好きな学生ならならば余計です。

思想家アレクシ・ド・トクヴィルは、フランス革命をフランスの「平等化」の過程の中で、引き起こされたと見なしましたが、先進国における移民系と非移民系の間に発生する民族問題の多くは、上記のような「同化」の過程の中で引き起こされると言えるのではないでしょうか。

もちろん、主に単純労働に従事する移民と高等教育機関に学ぶ留学生は異なります。ただ、「同化」しているにもかかわらず(「同化」しているからこそ)、移民系は非移民系と対立してしまうのです。

私は彼ら留学生に、「個」の視点を持って欲しいと願っています。自分が中国人であること、ベトナム人であることを肯定してもよいのですが、学問的に考える際はそれを一時的に保留し、事象を客観的に分析する必要があります。

上記は留学生に限定されません。日本人の学生も、日本を誇りに思うことは大いに結構ですが、学問的には「個」として客観的な分析が求められることに変わりありません。

もし、学問が平和に寄与することがあるとすれば、その客観性の中に微かであっても希望が見いだせるからなのでしょう。

学生たちには、(何と言われようと)しっかり勉強して欲しいと願います。

2015年2月21日 18:03

「格差」は可視化されることによって「問題」となる

1月16日、衆議院本会議にて興味深い論戦がありました。

先日、民主党の代表に選出されました岡田克也氏は、各党代表質問において「安倍政権の経済政策の最大の問題は、成長の果実をいかに分配するかという視点が、全く欠落していることです。日本も今や、先進国の中で、最も格差の大きい国の1つとなっています」と政府を批判しました。

それに対して、安倍首相は「(世論調査では)個人の生活実感において、格差が許容できないほど拡大しているという意識変化は、確認されていません」と反論します。

これは、議論のスタートとしては面白いのですが、両論とも「格差問題」を的確に掴んではいないように思えます。

岡田代表は、数字を挙げて批判し、安倍首相は意識、認識を持って批判をかわそうとしています。

しかしながら、最も重要なことは、なぜ、「格差社会」日本に住む日本人が「格差」を認識していないのかを考えることです。

人は数字ではありません。数字だけ挙げても、人々の心を見なければ意味がありません。一方で、認識(心)は変化しますので、今日は「格差」を感じていなくても、実態として「格差」があるならば、明日、認識されるかもしれません(その場合は、明日から首相は、「格差化」に対する政治責任を負うのでしょうか)。

現時点で、認識されていないから「問題なし」と考えるのは、非常に危うい考え方です。

その上で私見を述べさせて頂けば、私は、「格差」そのものは「格差問題」の本質ではないように感じています。

当たり前のことですが、全ての人の収入が同じにならない限り、全ての「格差」がなくなることはありません。そして、それは現実的にはあり得ません。ですから、「格差」とは大きいか小さいかに過ぎません。

大きいから問題で、小さいなら問題ではないかといえば、数字上はYesです。しかしながら、大きくても「格差問題」にならないこともありますし、小さくても「格差問題」が生じることがあるのです。

今、売れているトマ・ピケティ著の『21世紀の資本』で示されていることは、18世紀以降、基本的に世界は「格差社会」だったとうことです。しかし、それが問題化されてきたかといえば、必ずしもそうではありません(一部の人たちにとっては「格差」が最大関心事でしたが、民族問題や安全保障等がより重要である人、もしくは何も政治的関心を抱かなかった人も多かったのです)。

それでは、「格差」が問題化されるということはどういうことでしょうか。

私は可視化されることであると考えます。

「格差」は見えなければ、認識されないのです。逆に、いくら小さくても「格差」が見えてしまえば問題化されます。

そして、IT化されている21世紀は、その気になれば世界中で、何でも「見えてしまう」時代なのです。

「格差」が可視化される21世紀は、前世紀以上に、「格差問題」が問われることでしょう。

格差(数字)の大小にかかわらず、認識されてしまうのです。

2015年2月18日 01:35

自立するイライザ: ドラマ『ピグマリオン』にみる女性の時代

何度か映画化、ドラマ化されながら、同じ脚本をベースにしているにもかかわらず、最終的に観客へのメッセージが異なるケースがあります。

『ピグマリオン』(原題:  Pygmalion)

制作国 英国
制作年 1973年
監督   セドリック・メシーナ
出演   リン・レッドグレイヴ、ジェームス・ヴィラーズ
脚本   ジョージ・バーナード・ショウ

あらすじ
【20世紀初頭のロンドン。音声学の権威であるヒギンズ教授はロンドンのコベントガーデンで下町言葉の聞き取り調査をしていたところ、ロンドン下町訛りの花売り娘・イライザに出遭う。イライザに言葉を治せば社交界にデビューすることさえできると豪語したヒギンズ教授の言葉を頼りに、数日後、イライザはヒギンズ邸を訪れ、自分に英語を教えてくれと依頼する。ヒギンズ教授は、その場に居合わせたインド帰りの在野の言語学者・ピカリング大佐と、イライザをレディにできるかどうかで「賭け」をすることになり、半年間、自宅に住まわせ、英語の発音を綺麗に矯正することになる。厳しい訓練を経て紆余曲折ありながらも、イライザは、ついにある舞踏会に参加し、社交界デビューする。立派な「レディ」として扱われ、ヒギンズ教授の試みは成功する。しかし、ヒギンズ教授に淡い思いを抱いていたイライザは、舞踏会後、自分がヒギンズ教授の実験台に過ぎなかったことを感じ、ヒギンズ邸を出て行く。イライザを失ったヒギンズ教授は、イライザの存在の大きさに気付くが、イライザは彼女に想いを寄せる青年フレディと一緒に人生を歩む決意をする。】

この英国BBC制作のドラマは、劇作家のジョージ・バーナード・ショウの脚本なのですが、同じ脚本を土台とした『ピグマリオン』(1938年)も『マイ・フェア・レディ』(1956年)と結末が大きく異なります。

「レディ」となったイライザは、ヒギンズ教授の家を出て行きますが、過去の作品が、2人が寄りを戻すことを暗示しながらラストを迎えるのに対し、本作は金持ちに生まれながら頼りない青年フレディと結婚して、イライザは、「希望通り」ロンドンのお洒落な街角で花屋を開くのです。

本作は、ヒギンズ教授との関係を清算し、イライザは自立します。青年フレディとの結婚は、「ピグマリオン」の恋愛物語との決別なのです。

当ブログ、2月1日に記しました通り、『ピグマリオン』(1938年)と『マイ・フェア・レディ』(1956年)は時代を反映した「恋愛物語」でありましたが、この1973年の『ピグマリオン』も、ウーマンリブが叫ばれていた1970年代前半を反映しているのです。

イライザは完全に自立して、イライザのサクセス・ストーリーは一貫しました。これで良いのでしょう。

しかし、捨てられるヒギンズ教授を見ると、なぜか、未完成であるようにも思えます。おそらく、それは、ヒギンズの自立が放置されているからなのでしょう。

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プロフィール
安井裕司
安井裕司
エジンバラ大学、バーミンガム大学博士課程に学ぶ。その間、ルーマニア・アカデミー歴史学研究所研究生。国際政治学博士(PhD)。国連大学国際紛争研究所インターン、夏期講習クラスコーディネーター、法政大学国際日本学研究所客員研究員等を経て、現在、早稲田大学エクステンションセンター講師、日本経済大学神戸三宮キャンパス教授。
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