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グローバル化は足元からやってくる ~国際学で切り取る世界と社会~

2014年9月

2014年9月27日 00:35

プラスの外部効果としてのボランティア

神戸に赴任しましてから、縁がありましてユネスコ協会の活動に参加することになりました。

様々なバックグラウンドを持つ方々がおられるのですが、ある方とボランティア論になりました。

その方は、ボランティア精神は、個人の自己満足ではなく、まず社会のために貢献する精神が必要であると言われます。

私は、経済学の「外部効果」(external effect)の話を例にしまして、ある条件下において自己満足の追求も容認されるべきなのではないかと申し上げました。

「外部効果」に関しましては、当ブログ2014年1月18日にて映画『恋はデジャブ』を採り上げました際に言及しました。

「外部効果」にはプラスとマイナスがありますが、プラスの例としては自分のために庭に綺麗な花を植えるとその結果、近所の人々も綺麗な花をみて幸せな気分になるのです。反対に、マイナスの例としては環境問題が挙げられます。自分の利便性のために自動車を購入すると、その結果として排気ガスの出すことで公害問題に加担することになります。同じ自分のために行った行為の延長上の外部効果でも、社会的な受け止め方が異なるのです。

上記をボランティアに当てはめて考えてみます。

ある人が、自分が幸せになるため(自己満足のために)ボランティア活動に従事したとしても、結果として社会に貢献することができるのならば、それは「プラスの外部効果」となります。反対に、もし、自己利潤の追求のためにボランティア組織を利用するようなことがあれば、「公共性」に反しますし、そもそもボランティアではなくなってしまいます。

その分岐点は難しいところですが、一つには、お金が絡むかどうかということかもしれません。

最初の命題に戻しますと、私は、個人の欲を捨てて社会に貢献するという考えを持つ立派な方は、残念ながら、社会の少数派であると思います(もちろん、そのような方々は否定すべきではなく、尊敬すべき存在ですが)。むしろ、多くの方々に開かれたボランティアとは、自己満足を尊重しながら、「プラスの外部効果」を目指すものであるように考えます。

また、持続可能性という観点からも、個人が社会を動かそうと無理をせず(社会を動かそうとすると、無理に他人を動かそうとすることになります)、自分が満足するだけ活動するほうが、長期間持続できるのではないでしょうか。そのような、個が集まれば、結果として社会のへのインパクトも大きくなることでしょう。

実際の活動では、なかなか理屈通りに運ばないものでもありますが。


2014年9月24日 00:55

義賊が英雄になる社会:映画『おかしなバスジャック』にみる社会条件の反映

当然ですが、映画は社会条件よってヒットしたり、しなかったりします。

『おかしなバスジャック』(原題:  Restless Natives)

制作国    英国
制作年   1985年
監督   マイケル・ホフマン
主演   ヴィンセント・フリール、ジョー・マラニー

あらすじ
【スコットランドの首都エジンバラで清掃の仕事をしていた青年ウィルは、解雇され、親友のおもちゃ屋を経営しているロニーと観光バスを乗っ取るバスジャックを計画する。ピエロとオオカミの仮面を被って観光客からお金を奪う2人は、基本的にお客さんに優しく、観光客の人気者になる。ウィルはある時、バスジャックしたバスのガイドをしていた女性マーゴットに恋をしてしまう。マーゴットにウィルは、彼らの「仕事」をスコットランドの義賊ロブ・ロイのようだと言われると、彼は奪ったお金を人々に配るようになり、ますますヒーローになる。】

一見、たわいもないドタバタ劇です。

しかしながら、1980年代の時代とスコットランド社会を反映してもいます。

当時は、保守党のマーガレット・サッチャー政権です。二大政党制とはいえ、英国労働党は全国区では弱体野党であり、国政選挙にて獲得していた議席はスコットランドとウェールズが主でした。

この映画の舞台のスコットランドはそのような社会状況にあり、故に、失業した若者が、バスをハイジャックする物語がコメディとして成立しているのです。

観光客からお金を取るというよりも、「お恵み」を貰うようなピエロとオオカミの仮面を被った強盗は、そのお金を一般の人々に配ることで行為を正当化します。

彼らはお金のためではなく、社会に物申すために、好きな女の子のために「強盗」(義賊)になるのです。もちろん、彼らが最初から義賊になりたかったのではなく、言わば、なんとなくそうなっていきます。社会によって創られたかのように。。。

同映画がスコットランドではヒットしたのですが、全国的には大ヒットとは言えない結果だったそうです。義賊が求められる社会条件は、サッチャー時代のイングランドにはなかったということなのかもしれません。

逆に、スコットランドは、スコットランドの有権者の意思(労働党が強かった)とは別にサッチャーの支配下にあったとすれば、社会をひっくり返したいと思うようになるのも分からなくはありません。

もし、将来、スコットランドが独立するようなことがあれば(今回は否決されましたが)、義賊ロブ・ロイの伝説も、義賊バスジャックの物語も、政治的には必要とされなくなることでしょう。おとぎ話に戻るのです。スコットランド人ではない私は、それはそれで残念であるようにも思います。

2014年9月22日 00:18

「アイヌ人はいない」説を再考する

先月、札幌市議の金子快之氏が短文投稿サイト「ツイッター」に「アイヌ民族なんて、いまはもういない」などと書き込んだことが、問題視されました。

金子氏の根拠は、1955年、アイヌ出身の知里眞志保・北海道大学教授が北海道新聞に寄稿した記事にあります。

知里氏は、同記事において、アイヌの人々が日本語を使い、日本人と同様の生活をしていることから、「私達いわゆるアイヌといわれている者もやはり全部日本人なのです」と結論付けています。

であるとしますと、この知里氏の論から再考しなければなりません。

まず、民族を規定するものは、必ずしも言語や日常様式ではありません。

1960年代以降のナショナリズム研究は、ネーション(民族)の学術的定義を長年議論してきました。有力な仮説としては、人間の集団的アイデンティティとしての民族は、人々の「心(mind)」が決定するという論です。

この説に則して考えれば、洋服を着ていても、朝食にコーヒーとパンを食しても、クリスマスを祝っていても、日本人性は、一定の人々が日本人であると想えば否定されないことになります。同様に、アイヌ人性もアイヌの人々がどのような生活様式を送ろうと、アイヌ人がアイヌ人であると想う限り、否定されないのです。

グローバル化が進む今日、世界の人々の生活様式は「フラット化」(均質化)していく傾向があります。言語としては、英語がますます重要になってくることでしょう。

しかし、世界の人々の生活様式が均質化し、多くが英語を話すようなり、英語以外の言語が現在よりも重要性を失ったとしても、世界の人々から民族意識がなくなることを意味しないのです。むしろ、「フラット化」は、国籍を問われない存在のグローバルエリートを除けば、小さな差異を民族意識として顕在化させる可能性さえあるでしょう。

このように民族意識を人々「心」が規定し、動態的に認識する場合、私たちは、国籍に基づく国民性と民族意識の違いを明確にしなければなりません。

国民性とは常に、多民族的になります。なぜならば、世界中の民族意識に合わせてそれぞれの国家を(再)編成することは難しいからです。また、少子化に苦しむ先進国が受け入れる移民系住民の存在は、一つの民族的アイデンティティで国家を規定する困難さに拍車をかけることでしょう。

ここにおいて国民性とは、複数の民族のアイデンティティを否定せず、それらを包摂するような大きな枠組みになります。

このような時代の(新興)国家の独立とは、多民族国家から多民族国家(もしくは超国家組織)への編入を前提としたものであり、一民族一国家への道ではありません。 

つまり、いずれの国家の国民性も、多かれ少なかれ、多民族的かつ、多文化的でなければならなく、そのような国民性の形成に失敗すれば、国際社会に承認される国家として存続できないのです。もちろん、それは日本も例外ではありません。

2014年9月21日 23:59

スコットランドの住民投票:「誰も負けなかった」

2014年9月18日にスコットランドで行われました英国から独立の是非を問う住民投票は、独立に反対が2,001,926票で全体の55.3%、独立に賛成が1,617,989票の44.7%で、反対多数となりました(BBC online "Scotland Decides" 19 September  2014)。

終盤にきまして賛成派が伸びていましたが、最後の最後に独立反対派が押し切った形です。

この結果をどのように観るかが、多方面で論じられています。

事実として、反対派が勝ったのですが、私は、反対派にとっては「負けに近い勝ち」であり、賛成派にとっては「勝ちに近い負け」であるように捉えます。そして、今回、政治的には「どちらも負けなかった」ように思えます。

反対派は確かに勝ちましたが、終盤、追い上げられる(一部の世論調査で逆転される)と、デーヴィッド・キャメロン英国首相は、独立反対派勝利ならばスコットランドに現在以上の権限を委譲することを約束しました。それでも、40%以上の有権者が賛成票を投じており、苦しい戦いだったと言えるでしょう。

賛成派は勝てませんでしたが、権限譲歩を勝ち取り、次につながる結果でした。

特に、スコットランド最大都市のグラスゴーでは、過半数以上の53.49%の人が賛成票を入れています(反対は46.51%)(BBC online 同上)。グラスゴーだけならば、独立賛成なのです。

この結果を受けたスコットランド・ナショナル党(SNP)の党首で、スコットランド自治政府首相のアレックス・サモンドのコメントも、敗北宣言とは言えない内容でした(後に、辞任を発表しますが、戦略的な感じさえします)。

両陣営とも完全に勝ち切れてはいませんが、政治上の影響力は失うことはなく、負けませんでした(ただし、首都エジンバラで賛成派が38.90%しか票を獲得できなかったことは、独立支持派の「敗北」でしょう)。

英国では来年、総選挙があります。

総選挙におけるスコットランド選挙区では伝統的に英国労働党が強く、2010年の総選挙では41議席を獲得しており断トツであり、2位は自由民主党の11議席でした。SNPは6議席に留まっていました。しかし、今回の住民投票で英国労働党が独立反対を主張したことを考えれば、おそらく、SNPは議席を伸ばすことになるのではないでしょうか。

2017年には、英国のEU脱退を問う国民投票があります。もし、英国がEUから脱退することになれば、EU支持者の多いスコットランドでは英国からの独立、そしてEU(再)加盟の議論が再燃することでしょう。

英国政治は、激動の時代に入っているのかもしれません。目の離せない何年間になりそうです。

2014年9月20日 00:31

「動けない」人々の物語: 映画『マイ・ネーム・イズ・ジョー』にみる共同体の「縛り」

『マイ・ネーム・イズ・ジョー』(原題:  My Name Is Joe)

制作国 英国
制作年 1998 年
監督   ケン・ローチ
主演   ピーター・マラン
受賞   1998年カンヌ国際映画祭男優賞

あらすじ
【スコットランドのグラスゴー。元アル中のジョーは、集団カウンセリングに通いながら、地元のアマチュア・サッカーチームのコーチをしている。チームのメンバーで甥のリアムを迎えに行くと、健康管理センターの職員セーラに出会う。2人は恋に落ちるが、リアムと麻薬中毒の彼の妻は地元のギャングの胴元マガウアンに借金を重ねており、返済を迫られることになる。ジョーが交渉に行くと、ジョーがギャングは麻薬の運送を手伝うことでリアムの件を忘れるという。ジョーはその仕事を受け、その仕事でもらったお金でジョーは指輪とイヤリングを買ってセーラにプロポーズする。後に、セーラは妊娠するが、マガウアンの仕事を受けたことが、セーラの知るところとなり、麻薬問題に批判的な彼女は、ジョーとの関係を清算することに。】

ネタバレですが、ジョーはマガウアンとの関係を切って、セーラとよりを戻そうとするのですが、マガウアンと彼の仲間と暴力沙汰になってしまい、追われる身となります。甥のリアムは自分の命を持って責任をとろうとします。

元アル中のジョーですが、彼は、自分のために何かをする訳ではありません。愛する甥リアム夫婦を助けようとして麻薬運びの仕事をします。そして、麻薬の仕事によってセーラとの関係が悪化し、彼女と関係を修復するためにマガウアンとの関係を絶とうとすると、結果的にリアムの命を奪うことになるのです。

必死にアル中のどん底から抜けだそうとするジョーは、他人のために自分を追い込み、アルコールに戻っていくのです。

この映画には、二つの大変印象深いシーンがあります。

一つはジョーが、ギャングの麻薬をスコットランド北部から運ぶ途中に、軽食を取り一休みしていた時に、観光客向けのバグパイプ演奏者と並んで写真を撮ろうとする日本人観光客がでてきます。バクパイプ演奏者はお決まりの曲である「偉大なるスコットランド」「スコットランドの花」「スカイの舟歌」を奏でますが、ジョーは関心がないのです。

この映画が撮られた90年代後半、スコットランドでは、ナショナリズムが高揚していました。しかし、ジョーの世界には無関係なのです。

二つ目の印象深いシーンは、ジョーは甥のリアムにお金を与え、安全のため「この町を出ろ」というのです。しかし、リアムは出ないのです。彼は、ジョーに「自分はどこにも行けない」というのです。

移動の自由があります。法的にはリアムは、ロンドンだろうとエジンバラだろうと外国だろうと行けるのです。それでも、地域に「縛られている」リアムは、行けないのです。

リアムは、地縁血縁が土台となっている共同体の中に生きています。そこで生まれ、守られ、育ち、そこで結婚し、そこで失敗し、借金をして、そこで自らの死を選びます。外では生きていくことができないので、共同体の中で死を選択するのです。

これは、社会空間ベースの選択社会(ゲゼルシャフト)に生きている人には理解できないのです。

グローバル化は、ヒト・モノ・カネの国境・共同体を超えた動きを加速化します。世界中でグローバル人が登場することです。しかし、反対に「動けない人」は、依然として動けないのです(この場合、「動けない」とはメタファーでもあり、ロンドンに観光に行ったり、LCCで海外に観光に行くことは、「動く」ということにはなりません)。

一つ目のシーンに観られるように、共同体に生きる「動けない人」がナショナリストになるとは限りません。実際、この映画では「動けない人」の共同体はナショナリズムとリンクしていません。

しかし、ナショナリズムがこのような共同体の延長上に成立する可能性もあるかもしれません。それをネーションの包摂と見なすか、ネーション(ナショナリズム)の急進化と見なすかは難しいところです。

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プロフィール
安井裕司
安井裕司
エジンバラ大学、バーミンガム大学博士課程に学ぶ。その間、ルーマニア・アカデミー歴史学研究所研究生。国際政治学博士(PhD)。国連大学国際紛争研究所インターン、夏期講習クラスコーディネーター、法政大学国際日本学研究所客員研究員等を経て、現在、早稲田大学エクステンションセンター講師、日本経済大学神戸三宮キャンパス教授。
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