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グローバル化は足元からやってくる ~国際学で切り取る世界と社会~

2011年4月

2011年4月28日 14:43

こんな時だから学びませんか

私が定期的に講座を担当しています早稲田大学エクステンションセンターの春講座が、もうすぐ始まります。エクステンションセンターでは、どなたでも(春、夏、秋、冬学期の)いつからでも受講し、学ぶことができます。

例年、春講座は新年度となり受講生が多いのですが、事務局の方のお話では、この春は、震災の影響もあってか受講生が非常に少ないそうです。

地震、津波、原発事故、数多の難題に直面し、日々不安を感じられておられるかと存じます。余震や節電の影響もあり、電車の運行も不安定です。駅のエスカレーターも全面的には動いていないかもしれません。ですから、皆様が二の足を踏まれておられることも十分理解できます。また、心理的にもあのような大震災の後に自分のために勉強するというお気持ちにならないかとも存じます。

しかし、敢えて書かせていただければ、このような時だからこそ学びませんか。

政府の説明もコロコロ変わり、メディアに出てくる評論家や学者の主張もバラバラです。何を/誰を信じていいのか分からないかもしれません。そして、今、何か勉強しても日々の生活における理不尽な状況が即座に解消される訳ではないと思います。

でも、そんな時だからこそ様々な知識を得て、そして自ら「考える」ことは、重要なのではないでしょうか。

国立国会図書館の東京本館の目録ホールには「真理がわれらを自由にする」と刻まれています。この言葉は、昭和23年に議決された国立国会図書館法案の起草に参加した羽仁五郎参議院図書館運営委員長(当時)がドイツ留学時に学んだ言葉から採ったとされています(国立国会図書館ホームページ)。

羽仁氏は国会図書館の設立理由を「従来の政治が真理に基づかなかった結果悲惨な状況に至った。日本国憲法の下で国会が国民の安全と幸福のため任務を果たしていくため」としています(同上)。

そして、「真理がわれらを自由にする」という言葉は「民主主義は、ひとり国会議員が情報を持つことにより実現するわけではなく、国民が情報を持つこともまた民主主義の不可欠の要素である」ことを意味しているそうです(同上)。

私は学問上、一つの絶対的な「真理」(答え)に到達できるとは考えていません。しかし、昭和23年当時の「従来の政治が真理に基づかなかった結果悲惨な状況に至った」とし、今こそ、国民一人一人が学ぶことで民主主義を充実させよという主張は、3.11以降の日本において再び説得力を増しているように思われます。

もちろん、誰もが国を救うために、今何かと注目される地震学、原子力工学、政治学等を専攻する必要はありません。それぞれが、好きなことを、好きなだけ知りたいとお考えになられれば一番であると思います。何でもいいのです。今まで世の中において問われてきたテーマを多く「知り」、それぞれのお立場で「考える」ことは、何よりも個人の「自由」に?がり、結果として間接的に民主主義の発展にも寄与するのではないかと理解しています。

私は今回の東日本大震災が「天罰」であるとは思いません。ただ、理不尽であることは事実です。でも、この理不尽で不幸な災害を、運命的に捉えるべきではないと考えます。学問をすることは、そのような運命論から私たちを解放し、「自由」をもたらします。

ローマ帝国の奴隷反乱の英雄スパルタカスを主人公とした映画『スパルタカス』(1960年米国)において、スパルタカス(カーク・ダグラス)は奴隷身分から自由になった後に、同じく奴隷だった女性ヴェリニア(ジーン・シモンズ)に、「私は自由になったが、何を知っているのか」と問い、「何も知らない」、「だから、知りたいんだ」と以下のように語ります。

スパルタカス:I am free.   And what do I know?
  I do not even how to read.
ヴァリニア: You know things that can not be taught.
スパルタカス: I know nothing.
  Nothing!  And I want to know. I want to, I want to know.
ヴァリニア: know what?
スパルタカス: Everything.
  Why a star falls and a bird doesn't.
  Where sun goes at night.
  Why moon changes shape.
  I want to know where the wind comes from. 

(映画『スパルタカス』監督スタンリー・キューブリック、主演カーク・ダグラス、1960年米ユニバーサル・ピクチャーズ)

つまりここでは、自分の意志をもって、知りたいことを何でも「知ろうとする」ことが理不尽な運命からの本当の「解放」を意味し、それが「自由」の獲得であるとされているのです。

しかし、「自由」は「答え」ではありません。ですから、また「知る」ことによって(知れば知る程)悩んでしまうこともあるかもしれません。それでも、このような「答え」なき時代は、誰か偉い人に「答え」(のようなもの)を頂くのではなく、私たち一人一人が「知り」、「考える」ことしか「自由」や「安心」を得ることはできないのではないでしょうか。

もちろん、そのために必ずしも大学に通う必要はありません。ご自宅で書籍と向き合うことで学べることも多いと思います。しかし、大学には同じように学ぶ人々がおり、研究者がいます。「知り」、「考え」、「悩み」続ける仲間とご自分の意見を交わすことは、とても楽しい作業です。

どのようなことが起ころうと、人は叡智をもってしか対処できません。逆に、叡智があったからこそ、今まで人類の歴史が刻まれてきたのでしょう。そして、歴史は、一部の賢人や偉人によってのみ作られてきたのではないのです。

皆さん、こんな時だからこそ、学びましょう。

4月14日のブログにて、どのような人間にも所属があり、立場があると記しました。当然、私にもあります。ですから、今回は、特にその点をご考慮いただきお読み頂けますれば幸いです。と同時に上記は、個人の意見であり、エクステンションセンターの公式な見解ではないことをお断り致します】。

2011年4月25日 17:18

避けられる理由

福島第一原発事故が報道されて以来、日本の輸出品に対して「放射能汚染」のイメージが付きつつあります。経済産業省の調査によると、現在、米国、EU、ドイツ、オランダ、イタリア、ロシア、ウクライナ、スリランカ、中国、香港、台湾が日本からの輸入品に対して放射能検査を実施しています(経済産業省ホームページ、4月15日)。

前回、なぜ外国の著名人が日本を支援するのかを分析し、そこには社会に対して影響力のある著名人、有名人が担う高貴な義務(「ノブレス・オブリージュ」)があるのではないかと書きました。

著名人は「ノブレス・オブリージュ」によって世の中のアンフェアな事象に対し、積極的に闘わなくてはいけないのです。そして、自然災害である地震、津波の被害者はまさにアンフェアな状態に追い込まれています。ところが、福島第一原発事故に関しましては、微妙になってきます。

原発事故は津波によって引き起こされたのですが、電力供給の手段として原発をも選択したのは日本人であり、原発を所有する東京電力も日本の会社です。つまり、外国からは、その事故は地震や津波と同じような自然災害には見えないのです。

【国内でも事故は「天災」ではなく「人災」であるという批判が続いており、日本人自身も、多くが原発事故を「天災」であるとは考えていないようです(例えば、Diamond online 3月16日、JB Press 3月23日、週刊文春 3月31日号、時事ドットコム 4月9日、川村湊『福島原発人災記』現代書館)】。

「人災」でも、例えば、内戦による虐殺等は、国際的にアンフェアであると見なされます。ですから、M9.0の地震と数十メートルの津波の影響で福島原発の冷却システムが故障した段階迄は、たとえそれが「人災」的であったとしても、「言い訳」が許されたかもしれません。

しかし、その後、大気中に大量の放射性物質を放出させ、放射能汚染水を海に排出したことは、近隣諸国住民にとって迷惑であり、今度は彼ら(海外の人々)にとってフェアではない状況を招いてしまいました。

特に、放射能汚染水の海への放出に関しましては、ロシア、中国、韓国政府から事前通知が無かったと日本政府に抗議がありましたが(日本経済新聞 4月5日、東京新聞 4月8日) 、もし、どうしても、そのような方法を選択する必要があったとすれば、外交上、細心の注意を払わなくてはならなかったと考えます。

【外務省は、放出3時間前に定例の在京外交団向け説明会で簡単に説明し、その後、各国大使館にFAXを送ったと報じられています(読売online4月9日)】。

それは、放出した汚染水が安全かどうかの問題でもありません。例えば、日常生活において、ご近所からのバーベキューの煙に対して怒る人は、バーベキューの煙が、健康に害をもたらすかどうかを問題にしてはいません。

飽くまでも外国から見ればですが、放射能漏れに関して(福島県民を除く)日本人は「被害者」から「加害者」となってしまうのです。地震や津波に対し、「被害者」である日本人への同情を禁じ得ない海外の人々も、自分たちが「被害者」にはなりたくないのです。厳密には、安全が少しでも脅かされる危険性を受け入れるのが嫌ということになります。それこそが、外国人が日本訪問をキャンセルし、日本の輸出品が「避けられる」理由であるように思えます。

それでは、「避けられる」のは不可避であったのでしょうか。

ジャーナリストの小西克哉氏は1979年の米国のスリーマイル島原子力発電所事故では、米国製品に対し、このような拒否反応は出ておらず、日本政府の広報活動に問題があるのではないかと指摘しています(TBSラジオ「ディキャッチ」4月19日)。

個人的には、原発事故が発生してしまった以上、ある程度の海外における「日本離れ」は避けられなかったと考えます。しかしながら、上記の放射能汚染水の海への放出に見られるように、政府や東電の対応は必ずしも被害を最小規模にすることに成功しているとは言えないようです(そして、風評被害の拡大は国内において新たなアンフェアを生み出しました)。

日本政府は地震や津波で「被害者」であった日本人が原発事故で「加害者」となり得ることを自覚していたのでしょうか。「加害者」として、外国に理解を求めるには徹底的な情報開示しかないと考えます。そして、原発事故をどこでも起り得る世界的な危機として提示することで、各国にバードンシェアリングをお願いするべきだったのではないでしょうか。各国が合意するような形で汚染水を海へ排出していたならば、これ程、外交上の問題にはならなかったように思えます。

3月25日のブログでも記しました通り、今、日本政府への信用が問われています。事実、震災後の日本政府の対応は国際的に厳しい評価を受けています。しかしながら、ここで留意すべきは、過去も現在も日本の政府(与党)を選んできたのは日本人(の選挙民)であるということです。

前回のブログで、震災後、日本人が海外の一般の人々になぜ「愛されるか」を考え、その理由の一つとして、職人気質の日本人が良い「モノ造り」を続け、日本のプレゼンスを高めてきたからではないかと書きました。それでは、なぜ、そのような「モノ造り」の得意な日本人が「政府作り」が不得意なのでしょうか。そこに因果関係はあるのでしょうか。

あまり飛躍すべきではありませんが、日本の政治的弱体性の背景のひとつには日本が良くも悪くも「ノブレス・オブリージュ」を生み出すような「階層社会」ではなかったことがあるように感じます。長らく「一億総中流」と言われた社会であったことは、日本にプラスとマイナスをもたらしました。

何事も単純化してはいけませんが、日本の与党政治家も大企業の会長や社長も、概して、常に社会的責任を意識するような「ノブレス」さに欠けるのです(もちろん、例外の方も少なからずおられるでしょうから全てとは申しません)。

【政治学者の丸山眞男氏は、1949年の論文「軍国支配者の精神形態」にて、東京裁判で太平洋戦争の責任を認める被告がいなかったことを指摘していますが、半世紀以上経って起こった今回の原発事故でも責任が誰にあるのか分からないのです】。

しかし、それはコインの表裏でもあります。「ノブレス・オブリージュ」が成り立つ欧米先進国社会は、階層的「格差」が前提となっているのです。そのような社会においては、概して、個性で国民を引っ張る強いリーダーが目立ちますが、格差故に(移民問題等の)社会的軋轢も顕在化しています。一方、日本では欧米型の「顔」の見えるリーダーが少ないのですが、社会の大多数を占める中間層=「普通の人々」が平均的な知識を共有しており、集団的な能力が高いのです。そして、それは、良い「モノ」を大量に生産する原動力になってきたのではないでしょうか。

【現在においても、日本人の「顔」が特定の個人ではなく、集団であることは、4月21日に米タイム誌が公表した「世界で最も影響力のある100人」において、各国の著名人が並ぶ中で日本人の最高位が16位の「福島第一原発の従業員」であったことにも顕われています】。

このように考察しますと「愛される理由」と「避けられる理由」は社会的に同根であることに気付きます。日本人は「普通の人々」の能力が高く、「モノ造り」に長け、その結果、世界で「愛され」る。しかしながら、政官民における指導者層のガバナンスやマネージメントは弱く、その結果「避けられる」事態を招いている、もしくは助長していることになります。

理想は、国民の個々の能力も平均的に高く、また、信頼できる指導者層を形成することでありますが、そのような国は存在し得ないように思えます。とすれば、日本人が政治、経済面のリーダーシップにおけるマイナスを改善しようとする時、短期的には、理想の政治家、企業家の出現を期待するよりも全体の力でカバーするしかないのかもしれません。

グローバル化の中で、これ迄の日本の「良さ」が、今後も機能し続けることが可能なのかどうかは考察の余地があります。この十数年、日本は転換期の中で、格差化も含む諸問題が噴出し、政治においてガバナンスが、企業においてマネージメントが、グローバルな視点から問われてきたのです。言い換えれば、徐々に日本の「良さ」は失われつつあります。しかし、グローバル化も十分ではなく、欧米型の社会的責任を十分に果たせるリーダーも足りないと言えるのでしょう。

それでは、そもそも旧来の日本的「良さ」を維持したままグローバル化に対応できるのでしょうか。もし、それが不可能ならば、どのような国造りを目指すべきなのでしょうか。いずれにしても、絶対的な「答え」は無い中での「選択」になるのかもしれません。

先は見えません。しかし、少なくとも震災と原発事故によって、海外の人々から「愛され」、「避けられ」ることで、日本の直面する構造的な課題の一つは見えてきたように思えます。

2011年4月21日 09:37

愛される理由

震災後、世界各国の著名人による日本支援の輪が広がっています。

しかしながら、訪日する外国人の数は激減しています(東京入国管理局の調査によりますと、地震が発生した3月11日から31日までに成田空港から入国した外国人数は、1日平均で約3400人と昨年3月の約4分の1に落ち込んでいます)。また、福島第一原発事故に関連し、日本からの輸入品に放射能検査を課す国が増えています。今、日本は避けられているのです。

つまり、世界の多くの人々は日本を温かく支援しながらも、原発事故を抱える日本への旅行を止め、そして「放射能に汚染された可能性が少しでもある」日本からの輸入品を極力避けようとしているのです。このアンビバレントな現象をどのように理解すべきでしょうか。両方の理由を2回に分けて考えてみます。

3月22日のブログで、地震当日に来日し、その後もコンサートを続けましたシンディ・ローパーさんの事を記しましたが、4月5日にはフランスからジェーン・バーキンさんが緊急来日しまして、東京で復興支援コンサートが開催されました。

バーキンさんは「私は日本に来て、みなさんに直接愛しているというメッセージを届けることができました」と語られています(毎日JP.4月6日)。バーキンさんの「愛してる(ジュ・テーム)」は博愛に近いのかもしれませんが、彼女は「愛」を届けに来日されたのです。

直接、来日せずとも、世界各国で日本支援コンサートが催されています(例えば、4月1日、香港でジャッキー・チェン氏らが、4月3日、ロンドンでリアム・ギャラガー氏らがチャリティコンサートを行いました)。また世界の38のトップ・アーティストが楽曲を提供して「Songs for Japan」という日本支援のためのアルバムがプロデュースされ、音楽配信サイト「アイチューンズ・ストア」において18カ国で売り上げ1位となりました(共同通信3月29日)。

音楽界ばかりではありません。ファッション界では英国のデザイナー、ポール・スミス氏が4月4日に来日しました。毎年4月に東京で展示会を開催しており、昨年は35人での日本訪問だったそうですが、今回はスミス氏単身で東京に来ました。氏は「もちろんビジネスも大事だが、何より日本のスタッフや友人、その家族との絆が一番大事」と語り、訪日の目的は「彼らとハグするため」だそうです(朝日コム4月12日)。

日本文学の世界的権威でコロンビア大学名誉教授のドナルド・キーン氏は、4月末で同大を退職し、今後は日本に永住し、日本国籍を取得したいと希望されています。東北には格別の思いを抱かれており「心配でなりません」 と話し(朝日コム 4月6日)、一連の決意は震災被災者と日本への連帯を示すためと報じられています(読売online 4月16日)。

もちろん、来日をキャンセルされた歌手やスポーツ選手もいます。心ない発言をした外国の方もいました。しかし、それでも日本は、日本人が思っている以上に愛されているようです。それはなぜなのでしょうか。

第一に、欧米社会には有名人や社会の指導的立場にある人間が担う社会的義務(「ノブレス・オブリージュ」)の意識があることが挙げられます。有名人、著名人であることは、「ノブレス(高貴)」であり、社会的な義務が課せられるのです(語源を辿れば貴族に課せられた社会的な義務となります)。

そして、「ノブレス・オブリージュ」は、皆がアンフェアであると見なした事象に対して発動されるのです。彼らは社会的不公正の前に、自ら立ち上がり、それを是正する努力をしなければならないのです。

日本では、東京都の石原知事が今回の地震や津波を「天罰」であると発言致しましたが、世界的には「天罰」であるとは考えられていません。日本の(東北や関東の太平洋側の)人々だけが自然災害の被害を受けたことはアンフェアであり、そのアンフェアに対し、海外において多くの著名人が、自分たちが少しでも何かしたいという気持ちを抱いたのではないでしょうか。

もちろん、アンフェアなことは日本以外でも発生しています。自国の政府軍から攻撃を受けているリビアの市民活動家や、虐殺されたと報じられるコートジボアールの市民も同様です。過去の自然災害に限定しても、ニュージーランド地震、ハイチ地震、スマトラ島沖地震などもありました。その中で、日本への支援は桁違いとなっています(災害の規模が違いますから、全ての災害を同列には並べられませんが)。

ですから、次に、なぜ支援するのが日本なのかを考察する必要があります。

私見を申し上げれば、世界における日本のプレゼンスがあると考えられます。イェール大学の行動経済学者のディーン・カーラン教授は、人がなぜ寄付をするかについて、被災者や被災地に「心が動かされるかどうか」が重要であるとしています(D.Karlan and J.Appel, More Than Good Intentions, 2011, p.12.)。そして、どのような時、人は心が動かされるのかと考えれば、(物理的な距離ではなく、気持ちにおいて)より身近に感じる存在が傷ついたときになるのではないでしょうか。

【今回、日本が傷ついたことを知らせ、援助・支援に対する直接的なきっかけとなったのは、全てを飲み込んでしまう津波の衝撃的な映像であったと思われます。更に、その後、被災者たちが略奪行為もせず、秩序を守って整然としていたことが、「ノブレス」な態度として映ったこともあるのではないでしょうか】。

海外の多くの有名人にとって日本が大きな市場であることは事実です。しかし、単なるビジネスだけの関係ならば、放射性物質が降り注ぐ(と外国人が考えている)中、「愛」を届けたり、「ハグ」したりするために来日するでしょうか。かつて、「エコノミック・アニマル」と称された日本人ですが、経済活動を通じての交流は、単なるモノの売り買いだけではなく、外国の売り手側にも確実に日本と日本人に対する理解を深めてきたと言えるように思えます。

忘れてはならないのは、各国の著名人だけでは日本支援は成立しないということです。著名人たちの働きかけに応える大衆が海外に存在しなければこれほど日本支援の機運は高まらなかったのではないでしょうか。

海外の一般の人々には「ノブレス・オブリージュ」も課されませんし、また、その大半が日本を訪れた事もないでしょう。しかし、日本のアニメを見て育ち、日本製の車やバイクに乗り、日本製の電化製品に囲まれてきたのです(近年は、中国製、韓国製に取って代わられていますが)。彼らの日常の中に日本はいたのです。そして、日本製の物/モノ(ハード、ソフト)たちは単に消費されるだけではなく、作り手の心をも運んでいたのかもしれません。

仮にそうだとしますと、日本のプレゼンスは、日本人の職人気質が支えてきたことになります。外国の有形無形の良き物/モノを受け入れ、謙虚に学び、その後、単なる模倣ではなく、オリジナルなより良い物/モノを創り、輸出する。その繰り返しは、長い年月をかけて世界中の多くの人々にとって、日本を身近な存在にしていったのではないでしょうか。

大震災は大変不幸な出来事でした。しかしながら、海外からの支援を通じ、世界における日本のプレゼンスの大きさを実感することにもなりました。

2011年4月18日 15:45

金本選手の連続出場記録ストップが示唆すること

プロ野球、阪神タイガースの金本知憲選手の連続試合出場が、4月15日、史上2位の1766試合で止まりました。

厳密には、金本選手は1767試合目となるはずでありましたナゴヤドームの中日戦に、「登場」していたのです。8回表2死一塁の場面で、金本選手はピンチヒッターとして打席に入ったのですが、1ボールの後、一塁走者の藤川俊介選手が二塁への盗塁に失敗してスリーアウトとなり、8回表の阪神の攻撃が終了してしまいました。

金本選手の打席は完了せず、また、その後の守備に就かず、そのまま交代したために、野球規則10・23「連続記録の規定」により連続出場とはならず、記録が途切れることになりました。

野球規則10・23規定は以下のように記されています。

プレーヤーが連続試合出場を記録するためには、少なくとも自チームのあるイニングの守備(回の初めから終わりまで)に出場するか、あるいは塁に出るかアウトになって打撃を完了しなければならない(スポニチ4月16日)。

この「事件」は、数字と現実の関係性を示しているように思えます。

金本選手は8回2死一塁の場面において、約3万人の観衆の中、確かに「登場」しており、金本選手が打席に立ったことによって、一塁ランナーの藤川俊介選手が盗塁を試みたのです。しかし、その盗塁がアウトになったために、金本選手の「出場」はルール上、消えてしまったのです。セーフならば、金本選手は打席を全うし、連続記録が続いていたかもしれません

私は野球規則にクレームをつけるつもりはありません。むしろ、反対にこの「事件」は、私たちが日常接している数字が、このような人間の作ったルールによって消えたり、現れたりしているという重要なことを教えてくれているように思えます。

震災後、私たちは数字に一喜一憂しています。

地震の揺れの程度を示す指標「震度」、地震が発するエネルギーの大きさを表した指標値「マグニチュード」、放射能の量を表す「ベクレル」、物質が放射線に照射されたとき、物質の吸収線量を示す「シーベルト」、原発事故に関する国際評価尺度の「レベル」。

それらの数字は、全て人によって定義された基準に照らし合わされ、出されたのです。しかし、それらは人々が現実に体験する「事実」とは異なる可能性もあるのです(より悪い場合もありますし、より良い場合もあるかもしれません。また、数字と体験的事実が一致する場合もあるでしょう)。

私は、上記の理由によって社会の数字が当てにならないとは申しません。このブログでも度々数字を使っておりますし、ルールによって導かれる数字は社会にとって大変有益です。たとえ、耳慣れない単位だとしても、どれくらいの放射性物質が原発から漏れているかを知ることは大切です。

ただ、同時にそれらを絶対化する必要も無いということです。あくまでも人間が人間のために作った数字であることを忘れずに、かつ、数字が指し示す値には謙虚に受け止め、全体を把握すべきなのではないでしょうか。

【もし、押し寄せる数字が精神的に不安定要因となっているとすれば、意味がありませんので、数字は数字と割り切ってしまっても良いのではないでしょうか】。

金本選手の連続試合出場は1766試合で止まりました。しかし、1767試合目も「登場」したことは本当ですし、それ以上に、金本選手が広島、阪神時代を通じて、数多くの野球ファンを喜ばした事実は変わりありません。そして、
16日のスポーツ新聞には金本選手の(記録が止まって)「笑えたくらい」というコメントが載っています(日刊スポーツ4月16日)。

大記録を作るような大物は数字に翻弄されないのかもしれません。翌日(1768試合になるべきであった4月16日)の試合、金本選手は何もなかったかのように先発出場しました。

2011年4月14日 18:12

絶対的な「答え」はない

震災後、毎日、様々な専門家がメディアに登場しています。多くの場合、人々の安全に関わる非常に重要な情報を解説されているのですが、必ずしも識者の見解が一致しておらず、かえって迷ってしまうという声を聞きます。

【例えば、福島原発付近の放射能に汚染された海水から獲れた魚を食べても安全なのかどうかも意見が分かれています(朝日コム3月26日)】。

結局、それぞれが自分で最終判断をしなければならないのですが、このような時、専門家の見解を100%疑う事も、100%肯定することもすべきではないと考えます。

講義でよくお話しますのは、社会科学では絶対的な「答え」はありえないという考え方です。おそらくそれは、社会科学だけではなく、科学一般にもある程度当て嵌ることなのではないかと考えます。

研究とは定説を疑うことから始めなくてはならなく、どれほど良くできた(と思った)自説も、将来、疑われる運命にあります。

絶対的な「答え」がないのならば、どのような判断でアカデミズムが支えられているのかと考えれば、ロジックさが基準になるのではないかと思います。ロジックである合意、ロジックである批判は、非ロジックな合意や批判よりも有意義であり、よりロジックであることが、より「答え」に(到達することはなくとも)近付くことになります。

しかしながら、今回の震災や原発報道における地震学や原子力工学の話題になりますと、専門用語が多く、そのロジックを分析するのが困難であり、マスコミも視聴者、読者も分かり易い「答え」だけを求める傾向となります。

そのような状況において、研究者はとりあえずの「答え」として「私見」を述べなくてはいけないケースもあり得ます。もちろん、「私見」はロジックに裏打ちされているのですが、それでも絶対的な「答え」ではなく、その研究者の所属機関やバックグランド、時にはスポンサーに左右されることもあるのではないでしょうか。

「私見」を述べる事はいけないことではありません(このブログは文字通り私の「意見」ばかりです)。当然、人間ならば誰もが何かに帰属しており、研究者の見解も意図せずにしても(意図しても)所属組織等の「帰属性」、「拘束性」から無縁ではありません。つまり、100%ニュートラルな人間は存在しないのです。

重要なことは、受け手側が、論者のそのような「拘束性」を理解しているかどうかということであるように思えます。しかしそれは、「あの先生は東電側だから」、「誰々は何々党だから」というようなレッテルを貼り、100%否定することではありません。

受け手側も含めて誰にも「拘束性」があるのです。その「枠組み=限界」を理解し、できるだけ多くの専門家の見解に耳を傾け、全体像を把握する必要があるように考えます。

それでも、絶対的な「答え」は見つからないかもしれません。しかし、平均値を把握することで(もちろん、平均値が必ずしも正しいとは限りませんが)、少なくとも闇雲な不安からは解放されるのではないでしょうか。そして、自分自身の立ち位置や「拘束性」にも気付くかもしれません。

【誰にも「拘束性」があると言っても、送り手と受け手は同等ではありません。国会議員や大学教授、ジャーナリストの社会的な地位が高いとすれば、それだけ社会的責任が大きいということになります】。

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プロフィール
安井裕司
安井裕司
エジンバラ大学、バーミンガム大学博士課程に学ぶ。その間、ルーマニア・アカデミー歴史学研究所研究生。国際政治学博士(PhD)。国連大学国際紛争研究所インターン、夏期講習クラスコーディネーター、法政大学国際日本学研究所客員研究員等を経て、現在、早稲田大学エクステンションセンター講師、日本経済大学神戸三宮キャンパス教授。
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