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憲法から時代をよむ

第16回 刑事手続と人権(2) 拷問と死刑--36条(水島朝穂-憲法から時代をよむ)

 逮捕者の体に外傷ひとつ残さず、その意志や人格を破砕する効果的な拷問があるという。ソルジェニーツィン『収容所列島』(新潮社)第1 部第3 章「審理」に出てくる、旧ソ連内務人民委員部(NKVD)の拷問32種はすさまじい。爪をしめあげる、水を与えない、夜間眠らせないから、音響と照明、心理的コントラストによるショック(慇懃にやさしく攻め、文鎮を投げて怒鳴りつける)、羽毛で鼻のなかをくすぐる等々。32種類も挙げられると、人間をいたぶることを趣味にしているかのようだ。どこの国、どの時代にも、権力機関にはその種の人間がいる。実際、ナチス秘密警察(ゲシュタポ)や日本の特高警察にも「拷問のプロ」がいたという。

  そもそも拷問とは何か。公権力の担い手(警察・検察)が、取り調べの過程などで、被疑者・被告人に肉体的・精神的苦痛を与えて自白をとること、これである。殺してしまっては意味がない。死のギリギリまで痛めつけ、自白をとる。「自白は証拠の王」とされていた時代には、拷問は、有罪立証の最も効果的手段だった。
 日本国憲法36条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と定める。そこには、憲法にしては珍しいほどに、強く、激しい表現が使われている。「絶対に…禁ずる」。absolutely notである。拷問が自白採取の手段として濫用されてきた歴史を踏まえ、憲法は拷問をそれ自体として禁止しただけではない。拷問の結果得られた自白の証拠能力をも周到に否定している(38条2項)。もし公務員が拷問を行えば、特別公務員暴行陵虐罪(7 年以下の懲役・禁錮。刑法195条)に問われるとともに、当然に不法行為を構成するので、国家賠償請求の対象にもなる(国賠法1条)。

  日本だけではない。拷問禁止は世界の「常識」である。世界人権宣言には「何人も、拷問…を受けない」(5条)とあり、国際人権規約B規約も拷問の禁止を定める(7 条)。各国の憲法も、拷問を禁ずる。例えば、ドイツ基本法1条1項は「人間の尊厳」の不可侵を定め、拷問はこれを侵害すると考えられている。同104条1項は、「抑留又は拘禁されている者は、精神的にも肉体的にも虐待されてはならない」と、拷問を実質的に禁止している。ちなみに、ドイツでは、死刑も「人間の尊厳」に反するとして、基本法102条で廃止されている。

  だが、近年、「テロとの戦い」のなかで、欧米諸国では、「拷問の蘇生」傾向が生まれ、「許される拷問」が議論されている。ドイツでは、法哲学者W・ブルガーが、「拷問」(Folter)という言葉をあえて使わずに、「人命救助の証言強要」(lebensrettende Aussageerzwingung)という巧妙な言い回しで、実質的にこれを許容する議論を展開している。(1) 無辜の人の生命(時には肉体的同一性)に対する、(2) 明白で、(3) 直接的で、(4) 著しい危険が存し、(5) 危険が、確認された犯罪者によって引き起こされており、(6) その犯罪者が、危険を排除しうる唯一の人物であり、(7) そのことが義務づけられていて、(8) 肉体的強制の適用が情報を得る唯一成果の確実な手段である、という8要件がクリアされれば、限定的に拷問が許されるというのだ。さらに、裁判官の「拷問令状」のような規制のもと、かつ医師の立ち会いを行うという条件付で、拷問を実施することを認める議論もある。日本でも、早晩、憲法36条の「絶対的禁止」という言葉の「限定」解釈が始まるかもしれない。
  心しておくべきことは、ダムが決壊すれば、下流は大被害を受けることである。「人間の尊厳」や「絶対禁止」という強固な「ダム」に無数の「例外の穴」をあけていくうちに、「許される拷問」のレヴェルを越えて、「拷問を適用する権利(義務)」が語られるようになることが危惧される。

  さて、憲法36条が拷問に加えて、絶対禁止の扱いにしているものが、もう一つある。「残虐な刑罰」である。だが、この言葉に、人々は意外に無頓着である。テレビをみながら、「あんな奴は死刑にしろ」と叫んでいる光景。死刑が「残虐な刑罰」に該当するか否かを真剣に考えてみたことがあるだろうか。
  最高裁は、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑」のような残虐な執行方法を定めれば死刑は残虐な刑罰といえるが、刑罰としての死刑そのものが直ちに残虐な刑罰ということはできないという立場をとってきた(最大判1948年3月12日)。死刑それ自体と死刑の執行方法を区別し、執行方法として「火あぶり」などの極端な事例を挙げ、だから現行の死刑は必ずしも残虐ではないという結論に飛躍している。そこには、なぜ絞首刑は「残虐な刑罰」ではないのかということ自体についての丁寧な説明はない。

 また、死刑が正当化される理由として、上記の最高裁判決は、憲法13条、31条、36条を挙げる。13条の文言から、「公共の福祉」により「生命」の権利をも制限できるというわけである。「公共の福祉」を、人権の内在的制約・調整原理と解するのが常識となった現在においては、とうてい採用できない議論である。次いで、最高裁は、憲法31条の「法律の定める手続によらなければ、その生命…を奪はれ…ない」という文言から、死刑を正当化している。だが、31条は、いかなる刑罰も法律の根拠を必要とするという「罪刑法定主義」を宣明したものであって、死刑を積極的に根拠づけたものではない。
  そして、36条の「残虐な刑罰」の禁止。最高裁は、死刑そのものと死刑執行方法を区別して、前述のような結論を導いている。だが、これは正しくない。憲法が「絶対に」禁止した以上、例外はリミット・ゼロにまで限りなく縮小する。執行方法の残虐性にとどまらず、生命刑それ自体の残虐性が問われるべきである。憲法解釈論としても、例外を限りなく縮小させる解釈を徹底すれば、刑法9条の生命刑(死刑)などは、憲法36条に違反するという解釈をとることもできるだろう。まず、36条を基礎に据えた議論が望まれる。

  そこで、最高裁判決のように、13条→31条→36条と進んで、「残虐な刑罰」を相対化するのでなく、「絶対禁止」の36条から出発して、罪刑法定主義における実体的な側面に思いを致し、生命刑の法定化を疑い、そして13条で生命権の「絶対性」を確認する。こうした「36条から逆にたどる解釈」を展開すれば、死刑は「残虐な刑罰」となりうるのではないか(根森健)。

  なお、死刑を犯罪の抑止効果の観点から捉えた場合、存続しても廃止しても、凶悪犯の増減とは直接的な関係は証明されていない。他方、死刑冤罪事件か80年代に起こった4件に続いて、現在あるうちの少なくとも2件(袴田事件と名張毒ぶどう酒事件)は死刑冤罪事件であることが確実とされている。私もそう確信している。だとすると、死刑を最後まで根拠づけるものとして、「被害者の処罰感情」だけが残る。これはやっかいである。「被害者の人権」とは、「被害者が、国家に対して、被告人の死刑を求める請求権である」といった、とんでもな発想が出かねない風潮がある。日本の法文化は、そこまで退歩するのか。個々の被害者の激しい言葉に過剰に寄り添い、感情移入することなく、日本も、国家刑罰権の発動形態としての死刑を見直すべき時にきたように思う

  世界の状況はどうか。死刑の全面廃止国は90カ国、通常犯罪のみ廃止した国は11カ国、事実上の廃止国32カ国の計133カ国。存置国は64カ国である。死刑存置国のラインナップは日本、米国、中国、イラン、イラク、北朝鮮、キューバ、ベラルーシなどである。こと死刑に関する限り、日本は、「国際社会において、不名誉な地位を占め」ているのが現実である。

 そこで、この秋、死刑をめぐり四つの象徴的な出来事があった。まず韓国。10月10日、この10年間、死刑執行がなかったことで、ソウルで市民団体や元大統領などが集まり、「事実上の死刑廃止国宣言」がなされた。次にロシア。10月29日、殺人をするたびにチェス盤の64ある桝目に印をつけていき、14年間に48人を殺害した「チェス盤殺人鬼」といわれる被告人(33 歳)に、モスクワ地裁は終身刑の判決を下した。64枡目全部を目標に60人は殺したと豪語する被告人。反省の色は皆無である。だが、ロシアはEUとの関係もあり、96年から事実上の死刑廃止国の道を選んでいる。さらにスペイン。10月31日、マドリッド連続列車テロ事件(2004年3月11日)で、191人を殺害、1800人を負傷させた被告人に対して、マドリッド地裁は、主犯に禁錮4 万年の禁固刑を言い渡した。20人の被告人合計で、計12万755 年の禁固刑である。新聞は「テロに対するスペインの法治国家的回答」と書いた(Frankfurter Rundschau vom 4.11.2007) 。そして、11月15日。国連総会第三委員会は、「死刑執行一時停止」決議を賛成多数で採択した。日本はイランなどとともに反対にまわった。

  憲法36条の「絶対に…禁ずる」という文言の重さを考えてみよう。どんな凶悪犯(ロシアの「チェス盤殺人鬼」)に対しても、凶悪なテロ事件(スペインの例)に対しても、生命刑という刑罰方法によって向き合うことをやめた国々が増えている。この11月の国連総会決議にみられるように、そうした国々の主張こそが「国際社会」である。死刑を存置している米国は「国際社会」で孤立しているのである。いま、この国でも死刑の存続について、情報をきちんと公開した上での、根本的な議論が求められている。そのとき、常に、この36条が熟読されるべきだろう。                                                      (2007年11月19日稿)

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