今回、「育てる力」というテーマをいただき、「自分を育てることもままならない自分が、このテーマについて書く資格があるのだろうか?」という疑問を抱きました。
そもそも、「育てる」という語感に私自身馴染めませんでした。人は勝手に育つもの。うまくいっているように見えるのは、育てる側の力ではなくて、相手自身の成長する力によるものだという考えは今でも変わっていません。
でも、経営をしていると、そんな美しい言葉でまとめられそうもない現実にぶつかります。ただでさえ忙しい毎日を、人材育成の徒労で終わらせないためのポイントがひとつだけあることがわかりました。それは、「育てる価値があるかどうかを早い時期に見極めること」です。
このコラムは、実は、私の多くの失敗体験の上に成り立っています。現在の講師メンバーに落ちつく前に、幾人もとの出会いがあり、残念な別れがありました。そしてこれからもそれは続くと思っています。日々失敗ばかりの自分ですが、唯一誇れるのは、「育てる価値がある人材」だけはしっかりとつなぎとめられていることです。実は私自身、この逸材の存在によって、助けられ、多くの学びや刺激を受けていることも事実です。もっとも、私が逸材を育てるわけではなく、私が逸材たちによって育てられているという言い方のほうが適切です。
逸材への思いだけを書き連ねると、私が善人ぶっているように思われるかもしれませんが、逆の顔も持っています。「ダメな人はやっぱりダメ」とバッサリ切り捨てるクールな一面もあります。ちょっと弁解がましいのですが、そちらの顔を身につけられたのは、経営者の道を選んだからだと思います。気が弱くて、頼まれると断れない「お人よしを絵に描いたような東北人」がよくもここまでクールな都会人を演じていると自分で自分に感心してしまいます。このギャップが激しすぎるため、今は、仕事での人間関係とプライベートを完全に分けて生活しています。多分、経営者としてもっと修行を積めば、元来のパーソナリティで仕事を楽しめる日が来るのかもしれません。
結局、人は、人を育てる仕事を通して、自分自身を育てているんだなぁと痛感する今日この頃です。そして、人を育てる立場になってはじめて、両親やかつての上司たちの気持がほんの少し想像できるようになりました。そして、昔以上に、人への批判というものを空しく、かつ、嫌うようになりました。「じゃぁあんたがやれば」という気持がいつも沸き起こります。誰もが自分の能力のかぎり、最善を尽くしている。そういう人の至らない部分を指摘しても、すでに本人はぎりぎりのところでふんばっている。ならば、他人のことをとやかく言う前に、自分がすべきことを黙々とこなしていこう、と。「育てる力」とは、がんばっている人の状況を察する力でもあると思います。もっとも、自分はまだまだこの部分も欠けていると反省しています。
人を育てるということは、それだけ人といろんな意味での衝突を体験するということでもあります。
当然ながら、自分にとって「信じられない言動」を相手からもらうこともあります。しかし、忘れてはいけないポイントは、自分にとっては「信じられない言動」であっても、当人にしては「強い正義感に基づいた言動」であったり「理にかなった主張」であったりするのです。私は、英語以外に、異文化コミュニケーションについても講義をすることがあるのですが、そもそも「どちらが正しい」という○×二択の思考方式では、異文化コミュニケーションはまったく成立しません。異文化コミュニケーションという言葉は美しいですが、つきつめると、どこまで対立を緩和させ、混沌と向き合えるかという問題でもあるのです。ちょうど前回のテーマであるAT(ambiguity tolerance=あいまいさへの耐性)スキルが求められる分野です。
12回にわたり、このようにとりとめもなく、気の向くままに書き進めてきた「育てる力」でしたが、最後までお読みくださったことに深く御礼申し上げます。本当にありがとうございました!また、そのときの気分で書き進めて行く私のスタイルを、黙って見守ってくださった早稲田大学ラーニングスクエアの皆様の寛大なご配慮にもあらためて御礼申し上げます。