
2009年7月26日 00:40
「年上の人、美しすぎる・・・」と言われてみたい今日この頃、夏の装いを考える鈴木有香です。でも、正直言って、年功序列の崩れた組織で、年上の人が自分の部下になっている状況って、気が重くありませんか?
私が年上の部下や助手を持つようになったのは、カルフォルニアの大学での話です。日本語科プログラムのディレクター代理をやるので、サンタバーバラに赴いたのですが、同僚の教員、ティーチイング・アシスタント(TA)はみんな年上だったんです。そして、新参者の私がプログラムのトップになった状態!
そのとき私は32歳で今より3キロ痩せていて、白髪もありませんでした。なのに、同僚は40代、50代、私が教育指導する大学院生(TA)は、一人は満州生まれで母と同じくらいの年の人で九州の短大で英語を何十年も教えていた人、もう一人は大阪で教師をしていた40代半ばの人。 「どうするんじゃい! この日本人スタッフの集団!」 というのが最初の不安でした。確かに、専門の日本語教授方法の分野では私は同僚よりは優れているけど、人生経験の分野、そしてカリフォルニアの生活については新人なんです。
そこで、私はどうしたか?
まず、専門分野の仕事に関しては、誰よりも長時間仕事はしました。本当に昼夜曜日の感覚がなくなるくらい仕事はしていたと言えます。でも、日本語科のプログラムでは「とにかく、みんなで楽しく、無駄な仕事はなくして、ラクにやりましょう。」というスタンスで臨みました。
専門分野と仕事については、徹底的にこちらの意図を説明し、細かい指示を出しました。もちろん、相手からの反論も受け付けますが、相手が年上であっても、その意見が妥当でなければ、分かるまで説明をして理解していただくという方法をとりました。だけど、叱責ではなく、ユーモアを交えることは大切だったと思います。
しかし、自分が苦手な点は簡単に認め、得意な人の助力を得るとか、自分の知らないことは「知らない」と認めて、相手に協力を求めることは素直にやっていました。だって、仕事上、リーダーの地位だけど、それが「私が完璧である」ことではないと思っていました。というか、私は欠点と弱点は多分にあるので、「隠しても仕方がない」という開き直りでもありました。後は何かをやってくれたら、必ず謝意を示す。そんなところで、チームをまとめつつやっていたと思います。もちろん、いろいろなゴタゴタはありましたが・・・。
一方で、一緒に仕事をしていく中で、だんだん人の本当の性格のようなものがわかってきて、誰を信頼するべきか、誰にどのような仕事を任せるべきかという判断がだんだんできるようになりました。
大学を辞めて、日本に帰る前に、50代の講師の先生と50代のTAの人が「1年間、鈴木さんと一緒に仕事をやってきて、仕事が楽しいと心から思えました。」と言ってくれました。その言葉を聞いて、「私の初めてのリーダーの役割はとりあえず、成功したんだ!」と思えて嬉しかったです。
とにかく、この過酷なカルフォルニア生活で、私にもあった年功序列的な考え方がほとんどなくなりました。「年齢じゃなくて、個々人の性格や能力をまず見極めたうえで、何ができるか?」という発想に切り替わったと思います。
今、日本で、私は20歳年下の人から20歳年上の人と様々な形で仕事をしています。私たちを結びつけているのは「上下関係」ではなく、それぞれの個性や資質を認め合う「信頼関係」になっているので、そうした意味でのストレスはあまりありません。
2009年7月19日 05:25
夏の美しい思い出といえば、日本に帰国する直前、カルフォルニアのモントレーのジャズ・フェスティバルに連れて行ってもらって、芝生でビール飲みながら、音楽を聴いていたあの頃が懐かしい鈴木有香です。リカちゃん、どうしているかな?
カルフォルニア出身のアメリカ人ときくと、みなさんはどんな印象を持ちますか。日焼けしたブロンドとかハリウッドのセレブ、あるいはヘルシー志向で短パンはいてジョギングしている人でしょうか。
リカちゃんはファミリーネームが「リカルド」だったので、私が勝手にリカちゃんと呼んでいた友人です。おじいさんがコスタリカから来たそうですが、他にもアイルランド系の血や様々なエスニックの血が混ざったアメリカ人です。黒髪で茶色い瞳に白い肌、身長は190cmくらいだけど、細身で、一瞬見た目で人種という概念は超越している人でした。
リカルドというラテン系の名前は持っているけど、彼は寡黙な人で、内面に何か強いものを持つ文学青年タイプでした。彼はまだ行ったことのない日本に憧れていて、大学院で日本文学を勉強していました。「ワタシは いつもワビビト デス。」といっているような不思議な学生でした。
私がカルフォルニアでの仕事を終えて、帰国が決まったとき、「もう、仕事が忙しくて、カルフォルニアのどこにも行っていないよー!」と文句を言っていたら、愛車のジープで私をモントレーとカーメルンという海岸沿いの美しい町へ連れて行ってくれました。
その愛車の中で聞いた話が彼の複雑な家庭状況、離婚して働き続けるお母さん(看護師)を一人待ちわびながら、ペットのハツカネズミを話相手にしていたこととか、離れてしまったお父さんとの関係とか、UCLAに転校したとき、アパートが決まらないで半年ジープの中で生活していた話とかを淡々と話してくれました。それは、アメリカ映画でみたことのあるような不幸な家族の様々なシーンでした。
私は悲しくなりました。それは彼の生い立ちに同情してのことではありません。自分が映画やドラマはどこか別世界として切り離し、リアルな人の体験として捉えていなかったことへの驚きでした。本当に、それを現実として抱える人物が目の前にいることへの配慮のなさでした。事実は小説より奇なりなのです。
カルフォルニアで働いていたとき、想像を絶する嫌がらせとか組織的な問題に疲れ果てていたとき、リカちゃんは何も言わずに話を聞いてくれたり、食事に誘ってくれました。本当に静かに優しい微笑みだけで寄り添ってくれていたのでした。いじめの元凶が歯車の狂った日本人で、サポートしてくれたのが寡黙なアメリカ人だったという妙な状態です。
「人は悲しみが多いほど、人に優しくできる」というような歌が金八先生にあったけれど、リカちゃんはそんな人で、私よりもずっと精神年齢も高く大人だったのです。
そして、私は国籍、人種、年齢、地位とかそうしたラベルづけが、非常にあいまいなもので、人物や性格の良さを保証するものでないことを学んだのでした。
2009年7月11日 15:59
今回は、ちゃんぽん、皿うどん、カステラ、白たい焼き、角煮まんじゅう、ラーメン、サザエの浜焼き、壱岐ゴールドを堪能したために、東京に帰ってから、思わず「日本一辛い坦々麺」をオーダーした鈴木有香です。
私はどこに行ったでしょうか?
はい、長崎です。
現地で様々な料理に舌鼓を打っていたのはいいのですが、気がつくと、全部が甘いのですね。また、その甘さがいいのですが、考えると長崎にいた間、辛いものは口にしていなかったと思います。
「どうして甘いものが多いのか?」という質問に長崎育ちの方が「もともと、外国との貿易で砂糖が手に入りやすく、高価な砂糖を使った料理はそれなりの地位があったから・・・」との事でした。
うーん、そこにも歴史的背景があるわけですね。
このところ、研修を通じて箱根以西に行く機会に恵まれているのですが、各地、各地を巡りながら、その異なりを面白がっている私がいます。独断と多少の偏見を持ちながら、持論を進めさせていただきます。
町の風景で私の目に入るのは、確実に食べ物の看板ですが、
大阪: お好み焼き、たこ焼き、ホルモン、立体看板(既に東南アジア的な色彩)
神戸: ステーキ、明石焼き、ステーキ、おしゃれな欧文の看板
広島: お好み焼き、お好み焼き、ラーメン (1区画に必ずお好み焼き店!!)
下関: ふく、ふく、ふく、ふく
福岡: 明太子、もつ鍋、明太子、ラーメン、ラーメン、屋台
長崎: カステラ、カステラ、ちゃんぽん、ちゃんぽん
という感じがしました。特に、長崎はどこを歩いても、「カステラ」の看板が目に入り、3日で10年分くらい「カステラ」の文字を見た気になりました。逆に東京の街をあるいても、「カステラ」の文字はほとんど見ることがないんですよ。「明太子」はたまにあるけど・・・。
そして、東京なら、最近はイタリアン・レストランというか、スパゲティを出すような店はショッピング・エリアを歩けば、2件くらいは目に入るのですが、長崎では気がつくことはありませんでした。きっと、「ちゃんぽん」の絶対的な支持のもとにはイタリアものは入る隙がないのでしょう。そして、長崎人は一人ひとり、自分のベストの「ちゃんぽん」を持っているそうです。
なんかこう豊かな食文化のある日本はステキじゃないでしょうか。アメリカ合衆国なんて若い国はご当地料理というものの存在があまり感じられません。地域の伝統よりも、どちらかといえば民族的伝統になっているように思います。たとえば、LA料理とか、ニューヨーク料理とは聞かないけれど、イタリア料理、カリビアン料理、エチオピア料理、アイリッシュ・バーというような感じで、移民の祖国になるんですよね。
ということは、地域の料理というものは、それなりに人々の歴史と伝統と周囲にある食材がかなりの時間を経て築かれる文化なのだと改めて思う次第です。「すき焼き」が一応、日本料理の1つになるのだって、文明開化を経て100年近くかかっているのだと思います。
全国放送網の発達により、お国言葉が若い世代から薄らいでいる現象はありますが、各地の「おいしさ」は家庭や地域を通じて、次世代に継承してもらいたい日本の中の多様性の一つであると思っております。
2009年7月 5日 14:52
夏の瀬戸内海の海風の香る山口県のK市にある工場の研修から帰ってきた鈴木有香です。毎年1回、「ふく」のおいしい季節にうかがっていたんですが、4回目にして初夏の瀬戸内の表情をうかがうことができました。やっぱり日差しが強いです。
4年前初めて、そこを訪れたとき、私の頭は「山口=長州」というある種の思い込みがありました。なんとなく、「議論好き」な土地かというイメージです。ところが、瀬戸内側は「防州」で、穏やかに輪を保ちたいという雰囲気があるそうです。そういえば、話し方のペースもややゆっくりげで、明らかに関西のペースとは違います。
私の研修はコミュニケーションの実技に関わることが多いので、どうしても参加者の方が緊張感をなくし、はじけて活動してくださるほうが学びが大きいものなのですが、先生からの講義を聞く授業に慣れた人々には、「どこまで自分を出していいのか?」という点で悩まれる方が多いのです。ここK市の参加者もそうなのですが、私への観察期間には1日程度かかっていたようです。ワークショップ慣れしている人やのりのいい地域では2時間でその壁は崩れるのですが・・・。
今回もほぐすのに1日はかかったのですが、ほぐれてからの意見交換の活発さや突飛な発想の出方、私のつっこみ、叱咤に対して、「シュン」とならずに、果敢に挑む姿は以前の研修のメンバーのノリとやや異なっていました。正直言って、大きな潜在力を感じました。
あとで、人事の人とお話したところ、「いやー、採用の基準に体育会系というのを1つの柱にしたんですよ。」とのお答え。
職場の知識や技術というものは、職場に入ってから教えられるけど、先輩の指導や指示に対して「へこんで」会社に来なくなってしまう新入社員が多くなってきた事情を踏まえた評価基準だというのです。
携帯電話、パソコン、ゲームが身近な世代は昔の人に比べて直接的な「対人コミュニケーション」の機会が減っています。まして、「叱られる」という感覚が上の世代とはるかに違っています。先輩の何気ない一言に大ショックで、翌日から来なくなったという工場の現場の話は少なくありません。だから、体育会系の縦社会、絶対服従の中でもストレスを自分なりに処理して、前向きに生きてきた態度を学生時代に身につけているというのは1つの大きな武器に今やなっているようです。
一方、東京のIT企業系の中では、体育系カルチャーを知らない世代が親会社のメンバーとして子会社の年配の社員と対応するとき、若い自分がなぜ年配の子会社の社員から奉られているのか理解できないためのコミュニケーション上の問題が生じているという話を聞きました。
年功序列や終身雇用が崩れつつも、ある世代は完全に能力主義と割り切って対応したり、ある世代はそれでも縦の関係を重視するという価値観の齟齬が日本人同士のコミュニケーションをぎくしゃくさせている1つの要因でもあります。
縦社会、横社会、どちらを擁護するつもりはありませんが、異なる価値観の人々との関係作りには「へこむ」前にやらなければいけないことがたくさんあり、それに気づき、前向きに行動していく「強さ」は必要だと思います。そういう意味で、人事の方は「体育会系」とおっしゃっているんだろうと私なりに解釈しています。