
2009年6月28日 00:46
学者という職業に片足くらい残している鈴木有香です。とりあえず、ここ10年は学会発表、学術論文掲載はやっているので、そういってもいいかなーと思います。
私の場合、法学とか心理学とか1つの領域に収まりきらないコミュニケーション学系統なので、いろいろな研究手法や論理を考えるんですが、時として、ある学問領域での真実は現実生活でどんだけ真実なんじゃ!!と思うことがあります。
例えば、昔やっていた日本語学の文法論で「・・・てしまった」という表現は後悔を表すと説明できるんですが、これがいつでも真実かというとそういうわけでもない。コミュニケーション学では言語だけでなく、非言語コミュニケーション(表情、声)など身体性も考えます。
すると、「いやぁー、昨日、キャバクラの美樹ちゃんにせまられっちゃって・・・」なんて台詞を笑いながら、明るい声の調子で、職場の仲良し男性とタバコ吸いながら、話していたとしたら、単なる自慢になるでしょう。だから、言語学という言語だけの世界では「後悔」」を表しても、他の要素を加味すると、そうじゃない場合もでてくるわけです。つまり、研究分野のルールや考える範囲によって、けっこう真理というのも限定的なことがよくあります。
科学の分野でも、理論だけでは多くの人に相手にされないのですが、顕微鏡や望遠鏡などの新しい技術で見た目でも証明されると、真実と認定されることがよくありますね。誰が認定するかという問題はありますが・・・・。
「それでも地球は回っている」という言葉でお馴染みのガリレオ・ガリレイさんは17世紀半ばのヨーロッパの最高権力のローマ法王庁に裁判にかけられても、己が理論の地動説を曲げませんでした。そのため、終身刑を宣告され(後に減刑されましたが、)余生は監視つきの家に住まわされ、外出も自由にできず、死後もカトリック教徒として埋葬されませんでした。当時の基準で言えば、かなり重い刑でしょう。
でも、こういうのが本当にかっこいい学者の姿だと思います。自分の作った学説と真実に対して真摯であるから、時の最高権力とも戦ったわけです。学者の責任ってそういうところじゃないでしょうか。
政府の諮問委員会に選ばれて、簡単に自説を曲げたり、政府の意見に追従するようなコメントを言う学者も少なくありません。やっぱり研究費とか補助もほしいところもあるでしょう。あるいは、学内でちょっとでも有力な地位を得たいために、上の先生の不正を正さず、弱者の先生にプレッシャーをかける人。それでも世間的には「学者」、「研究者」、「教育者」というニュアンスで尊敬を得られる大学の先生という職業をしている人も少なくありません。(もちろん、本当に人徳のある方もいらっしゃいますが・・・)
でもね。命がけで学問的な真実を追究し、命をかけた先人もいることを考えると、「知識」や「専門性」や「教育」を商売にしている人は倫理観や社会的責任という大きな視点ももっていないといかんだろうなーと思います。
私? 片足学者ですが、うーん、異端審査とか拷問をかけられたら、寝返ってしまう弱さのある自分であることを意識しています。小林多喜二にはなれません。
2009年6月21日 01:10
全国の怒涛の研修の旅に出ているときに、神戸で男性から手作りのケーキを差し入れてもらっている鈴木有香です。さらに岡山ではロールケーキ。 スイーツをプレゼントしてくれる男性に恵まれているけど、体重計が怖い今日この頃です。
ミディエーションという第三者介入のための話し合いは1対1のコミュニケーションよりずっと複雑で、敵対する当事者の感情に配慮しながらならないものです。アメリカの大学院の先生は「これはもう、芸術の領域でもある」といっています。要するに頭脳や論理を超えた領域です。ですから、どうしても感性をアップさせる活動とか、ロールプレイなど、身体と心を使う学習活動が必要になります。でも、日本の学校や職場でロールプレイを体験する機会やいいロールプレイを見た経験がある人は多くないので、実際、「やりましょう。」といってすぐできるものではありません。
ロールプレイは基本的に「おままごと」のような「ごっこ」遊びの延長なのですが、大人になるほど、その「ごっこ」の感覚を忘れて、「恥ずかしい」という気持ちに支配されています。だから、ロールプレイをいきなりやる前に、身体をほぐし、気持ちをほぐすような前作業、ロールプレイの役にの感情を乗り移らせるための役作りをていねいにやる必要があります。そうして初めて、当事者役の心と身体の動きを作ると、生き生きとして学びの大きいロールプレイができます。ロールプレイに苦手意識があるかたは、苦手な自分を責めないでください。楽しく役作りができる環境を用意できない講師側の責任です。
そして、役にはまり込むと自分の魂の入った言葉がでてきます。私は関西弁の区別はできないのですが、県の違いのほかにどうも年齢別に言い回しが異なるようです。年配の男性の関西弁は東京者の私にはかなり迫力のある言語に聞こえます。
一方、岡山弁は関西風のアクセントを保ちながら、のんびりやわらかい感じ。そして広島弁、「仁義なき戦い」のイメージだとドスがきいて怖いのですが、「ほーじゃろー」とやや脱力気味で発音されると、妙に哀愁を帯びてきます。そして、徳島弁は関西弁の抑揚を保ちながら、「・・・なんよ。」など、濁音がへり、や行、な行が文末に来ると、どえらく怒っている男性の声もなんか優しく聞こえます。
各地方の研修で、参加者の人々が自分の感情が一番でるのは、やはり自分の日常の言葉で、それが心に響きます。そして、この話し言葉のバリエーションは日本の豊かさだと思いました。テレビやラジオでもっと、地方の言葉が自然に放送される機会が増え、みんながいつでも、どこでも、自分の一番感情のこもる言葉で語れるような状況になることは、日本人が多様性により寛容になり、違いを楽しめる、あるいは他者の個性をリスペクトできるというバロメーターになるのかな?と思いました。
ちなみに、東京下町言葉が母国語の私は自分の言葉はきっと、他の地方の人にはかなりきつく聞こえるんだと思います。(反省!)
**ところで、「ウルトラミラクルラブストーリー」という映画、ご覧になりましたか?注目の役者松山ケンイチが主演しているんですが、全編字幕なしの津軽弁でした!! お国言葉のもつ、生き生きとした会話、想いが感じられます。そして最後が何を象徴するか??皆さんと議論したいなーと思いました。東北地方のもつ文化的豊かさも感じられます。
2009年6月13日 22:15
「天下御免」、「黄金の日日」、「花神」、「南国太平記」といったNHKの時代劇が大好きだった鈴木有香です。なんで、こんな番組かといっても、昭和の家庭にはテレビはお茶の間に一台で、我が家の主権は親にあったからです。
でも、この時代はお茶の間で家族全員が同じ番組をみていたという利点は、小学生の教養を高めるのは絶好のチャンスだと思います。テレビのドラマから歴史の登場人物と接していますから。「時間ですよ」、山口百恵の「赤いシリーズ」は見せてもらえませんでしたが、親の見る映画はいっしょに見ていました。ナチスの存在を知ったのはリリアーナ・カバーニ監督の「愛の嵐」という映画です。(小学生でこんなの見ていたのか!!とイギリス人に驚かれるRな映画です。)
ですから、ラッキーなことに中学、高校の年号暗記の経験の前に、歴史は人間ドラマという印象があり、登場人物とともに当時の風俗や時代背景をおぼろげに感じていました。それで、教科書で「ナチス」とか出てくると、勝手に妖しい妄想をして色づけして本を読んでいたと思います。そうじゃなきゃ、本当に信じられないくらい無味乾燥な文の羅列というのが検定教科書の特徴ですから。
さて、ところ変わって某大学の授業で、幕末の若者の心意気と交渉スキルを見せるために、高杉晋作の下関講和談判のシーンをNHK大河ドラマ「花神」から見せたんです。日本語です。でも、どうもすぐ状況が理解できないようでした。そこで、幕末のころのアジアに列強がどう進出していたのか聞いてみました。
「アジアで植民地にならない国が2国ありました。1つは日本、そして、もう1つはどこでしょう?」
学生1「韓国」
学生2「中国」
学生3「インド」
と、あてずっぽうで言ってきました。
私 「もう、クイズ・ミリオネアーで、ライフラインがあっても絶対君たちを使わない!!」
これが今どきの有名校でない普通のレベルの学生の答えです。みなさん、どう思いますか。この答えをアジアからの留学生が聞いたら、どう思うでしょうか?
韓国は日本が占領した国です。中国も欧米列強の後をついて、日本も侵略しました。インド・・・・、イギリスのアジアの侵略第一歩の場所じゃありませんか。答えはタイです。(「アンナと王様」という映画を見るといいですよ!)
今、交通の発達や経済のグローバル化から、世界各国の人と私たちが交流する機会はますます増えています。そうした中で、植民地になった国の人々は占領した国を覚えています。何をされたかは、日本人がいつまでも広島と長崎を忘れないのと同じように覚えています。
各国の歴史教育や歴史観の問題はありますが、少なくとも近代史の中で日本が各国とどのような関係であったかという事実を知っていることは、年号と出来事の暗記作業以上に、国際理解や交流にとって重要なことだと私は考えます。歴史や地理の授業に映画やドラマをたくさん見せ、それについてのグループ討論を繰り返すことのほうがPISAの意図する学力には近くなるのではないかと思います。
2009年6月 7日 22:59
雨音を久しぶりに聞きながら、ひんやりとした空気を素肌に感じつつ「これも自然のささやき声?」なんて詩人を気取っている鈴木有香です。
声といえば、ここ数年聞こえない声というのを感じています。別に私が年を取ったからというわけではないのですが・・・。
「お召し上がりになりますか?お持ち帰りになりますか?」というのはファストフードのマニュアル通りの問いかけなんですが、そのとおり機械的な棒読み声なので、油断すると何を言っているかわからないことがあります。とりあえず、話の段取りの予測がついているので、「・・・めし・・・もち・・・か?」の音を捉えて意味を拾っているような感じがすることがよくあります。
美容院でのシャンプーでも、「すみません。」と声をかけられるのですが、何故かわかりにくいときがあります。頭の位置を動かすから、声をかけているのだとは思うのですが、既に頭を動かしている途中で抑揚のない声で言われるので、一瞬意味が捉えられないことがあります。「かゆいところはないですか?」といわれても丁寧だけど抑揚のないささやき声で言われても本当に質問されている気になりません。
時々、企業の受付の人の「いらっしゃいませ」の声も丁寧なんだけど、挨拶されている気にならない声もありますね。
何なんだろう、この違和感は? 疎外感は???
言葉に気持ちのこもっていない機械的な段取りどおりの応対の声は、すでに質問文であっても、相手の耳に意味として入っていけないのです。つまり、応答が成立しない、問いかけが多くなってきる気がします。
演劇的に言えば、多分「その言葉を発する目的は何か?」ということを意識して、その目的達成のために発話をすると考えますが、店員のマニュアル通りの応対の声は「目的」への意識より、「敬語を間違わない」とか、決められた文言を再生することだけにしか意識されていないんではないかしらん?と考えました。
その逆の体験が昨年、ロンドンのグローブ座でシェークスピア劇を見たときでした。はっきりいって、劇中の英語が分かるほどの英語力は全くないのですが、胸に役者の一人ひとりの言葉が入りこんでくる感覚を得ました。何をいっているのかわからないのだけど、明らかに声が、その人物の意図や気持ちを私の胸に届けようとしている感覚なんです。英語の音がこれほどきれいと思ったこともなかったです。しかも、マイクなしで、劇場いっぱいに広がる声。
歌舞伎をみたときもそんな瞬間があります。長唄も、台詞も聞いていてわからないけど、明らかに声が自分の身体に入り込んでくるのです。
反対に現代劇や時代劇の中でも登場人物の台詞を口で発声しているだけで、魂のない言葉を話す人もいます。多分、訓練されているかどうかの問題ではなく、マニュアルを再生する程度に台詞を話しているのでしょう。しかし、脚本をマニュアル置き換えて、形式の再生だけをしている言葉には魂が感じられません。
言霊というように、「自分の魂」を表現する一手段として声を考えるとき、私たちはその目的や意味を大切にしながら話をしたいと思うこの頃です。それが相手へのリスペクトの第一歩だと思うのです。敬語という形式の前に・・・・。