
2009年5月31日 01:12
カラオケにいくと昭和の歌謡曲しか歌えない時代遅れの日本人だけど、外国人男性から詩をプレゼントされたことがある鈴木有香です。ちょっと、ロマンティックでしょ、オホホホ・・・・・
さて、昭和の歌謡曲の名曲の1つに山口洋子作詞で五木ひろしの歌う「横浜たそがれ」がありますね。
よこはま
たそがれ
ホテルの小部屋
くちづけ
残り香
煙草のけむり
ブルース
口笛
女の涙
あの人は 行って行ってしまった
あの人は 行って行ってしまった
もう帰らない
「あの人は行って行ってしまった。」という文以外、ほぼ名詞の羅列で、主語も述語もないんです。にもかかわらず、私たちの頭には1つのドラマが成立するというのは、まさに、省略の美学の1つのであり、日本人の「察し」能力を示す例になるんじゃないでしょうか? 外国人を含む全ての人がこの歌詞を同じように解釈できるのかなぁと疑問に思っているところです。ちなみに「行ってしまった。」の「しまった。」という表現は「動作や状況の完了」を示すと同時に、発話者の「悔い」という気持ちを表せる表現ですね
最後の「もう帰らない」は不完全なで、英訳するには「彼女は、もう帰らないと、俺は思う。」と文を付加しなければならないでしょう。。ある意味、客観的記述はなく、聞き手のイメージ化によって補われる歌詞のように思われます。
一方、英国の有名な劇作家であり詩人のシェークスピアの詩を見てみましょう。「私は口下手なので、私の詩を読んで、私の愛の強さを知ってください。」ということが、以下の14行にまとめられたソネットですが、きっと、平安の歌人なら31文字でまとめられると思います。(私にはできないけど・・・)
<ソネット 23>
未熟な役者が舞台にでてくると、
恐怖心にあわられて自分の役を忘れてしまう。
熱しやすいへぼ役者がむやみやたらに興奮すると、
勢いだけが先走って気持ちが負けてしまう。
私も同じことだ。自分に自信がないものだから、
愛の儀式の口上をきちんと述べたてるのを忘れてしまう。
おのが愛の力という重荷におしひしがれ、
おのが愛の強さに心がなえてしまうらしい。
ならば、わが詩こそ、この語らんとする胸のうちを
言葉たくみに伝える無言の使者であってくれ。
これならば、より多くをよりたくみに言いなす舌よりも、
もっとみごとに愛を訴え、愛の報いを求めるだろう。
さあ、沈黙の愛が書いたものを読み取ってくれ。
眼で聞くことこそ、愛が生んだすばらしい知恵だ。
一読しただけで、既に詩というよりは論理と感じられるのではないでしょうか。説明過多で、余韻はないけれど、多くの人が読んでも主要なテーマは理解できそうです。こんなクドイ言葉のやり取りじゃないと愛は通じ合わない社会というのも不便なもんです。(でも、けっこう、女性は言葉で言ってほしいというニーズはありますね。)
2つの詩を見比べながら、最近の20代くらいの人のどことなく、「横浜たそがれ」的で一部の人には意味が通じるけど、ちょっと部外者には何をいっているかわからないコミュニケーションが増えているなと思っています。しかし、社会の中で多様性が進んでいる今日、若い世代が昭和のコミュニケーションに逆進するのは何故かなぁと思う今日この頃です。
2009年5月24日 14:58
「編集者?」、「アパレル関係?」、「どこの劇団の方ですか?」「魔女?」と初対面の人に職業を推測されている鈴木有香です。何が根拠か本人は理解していません。
実際のところ、日米の大学(大学院含む)で10校程度の教壇に立ったこともあるので、「大学の先生をしています。」というのが小学生以上の日本語話者には一番わかりやすい説明かもしれません。
ただ、そういうと、「頭がいいんですねー。」みたいに言われるのですが、「大学の先生=頭が良い」というのは絶対迷信だと思います。これまで、精神を病んでいる人、会話のできない人、人の目を見れない人、嘘と現実が区別のできない人など、様々な大学教員を日米でみていますので、上記の特質を持っている人が「頭がいい」なら、私はそのメンバーに加わりたくないです。
みなさんは「頭が良い人」ってどんな人だと思いますか。「頭がいい人」はどんな職業をしているでしょうか?
最近、たくさんの著作を発表している佐藤優さんは外交官、検察官、裁判官について「基本的に大学の時に教科書をよく暗記して、それを再現する能力、こういう受動的な知性に優れているということで、それで自分は頭がいいのだと勘違いしている、本質的な馬鹿者が多い」、「まともな人間としての洞察力が無い」と評していました。
ちなみに、OECD(経済協力開発機構)の実施した国際学習到達度調査(PISA)の求める能力の定義は以下のようなものです。
・ 読解力:「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」
下線は佐藤さんの視点に立てば、「官」の多くの人には問われていない能力と私には思えたものです。
・ 数学的リテラシー:数学が世界で果たす役割をみつけ、理解し、現在及び将来の個人の生活、友人や家族や親族との社会生活、建設的で関心を持った思慮深い市民としての生活において、確実な数学的根拠に基づき、判断を行い、数学に携る能力。
うーん、数学が「思慮深い市民としての生活」と関係あるなんて今まで考えたことのなかった私にはかなり新鮮ですが、とりあえず、全文、下線にしてもいいでしょうか?
他にも科学的リテラシー、問題解決能力などの定義があるのですが、基本的には知識を理解し、熟考した上で、「知識を問題解決のために活用する」、あるいは、それに伴う「判断力」が言及されています。しかも、その観点から世界41各国27万人の15歳児にテストしたそうです。(日本の高校1年生約4700名参加)。
それで、日本の順位が下がったとか、それが「ゆとり教育」の問題だとか一時メディアでもけっこう取り上げられていましたけど、それ以前に、PISAの要求する学習到達度に達している「日本人のおとな」をどなたかご存知ですか?
漢字が読めない総理大臣、根拠のみえない政治家の答弁、「思慮深い市民」の見本となる「おとな」はどこにいるのでしょうか?
私たちの学校での学習経験、社会生活の体験のなかで、どんな「頭のよさ」を訓練されたのでしょうか?「暗記と知識の再現力」それとも「変化する状況に対して知識を活用する力」ことでしょうか?
そして、今の生活の中で私たちはどのような能力を持っているべきなのでしょうか。そして、それを私たちは今、持っているのでしょうか?
お馬鹿なタレントを人気者にする「知識の再現」だけを見せる安易なクイズ番組が跋扈する時間帯に原稿を書いている私でした。
ところで、「スラムドッグ$ミリオネアー」という映画は「知識」、「経験」、「生きる力」という日本人が今こそ考えなければならない問題が描かれています。NLP的な観点でも面白いので、時間があったら是非ごらんください。
<参考文献>
佐藤優 『国家を斬る』同時代社
岡部 賢治 『世界標準の読解力』白日社
2009年5月17日 02:40
今年は自分の勉強の年とか思って、NLP(神経言語プログラム)のワークショップを受講中の鈴木有香です。
五感が鈍感な私としては、微妙な人の変化に繊細になったり、心のあり方を考えるにはNLPはかなり実践的なワークと理論を提供してくれるなと思っている一方で、これまで私がかじってきた演劇理論、アレキサンダー・テクニーク、プロセスワークなど、コミュニケーション教育に関連する手法や理論がオーバーラップしていることを感じます。
そんなときに、演出家で演劇指導者のCさんと久しぶりに会って、死ぬほどすき焼きを食べたのでした。実はH法科大学院のN先生が私が役者さんと交流があることを知ると、ぜひ、授業に役者さんの力を借りたいというので、Cさんを紹介したのです。彼女は自分の主宰する劇団員をつれて大学院でロールプレイの相手役をやりにいっています。ちなみに、一人はイケメン俳優の小笠原宙くん、映画「クローズ2」に出演していました。
役者が加わったロールプレイに参加した学生さんは「頭が真っ白!」になったらしいです。そう、ロールプレイのやり方や経験の少ない同業者や同じタイプの人同士でロールプレイをすると、身内の恥ずかしさや本人の羞恥心に気がとられて、心身を集中してロールプレイにのめりこめない場合があります。ところが、相手役が役者さんだったり、ロールプレイのうまい人だと、その羞恥心でなく、かなり近い形で実体験が得られ、教育効果は高まるのです。
役者の目から見る法曹の卵たちはコミュニケーションの初歩である「相手をそのまま受け入れる」ということがまずできていないということ。どうしても、専門家の観点から自分の持っている地図に相手を入れ込もうとするそうです。また、役者の言葉でいうと「ステータスが高い」。これは実際の地位ではなく、相手に対する心理的優越感、余裕のようなものを示し、そうした心理がその人自身の姿勢、声、表現に影響を与えるという問題です。英国王立演劇アカデミーでの演技のクラスで紹介された概念です。
もし、クライアントと法律家が互恵的な関係であり、社会での地位や収入を越えて、人間として対等というスタンスに立っているなら、法律家の「ステータス」が初対面の時点で高いのは問題かもしれません。
「多分、ロールプレイの前に身体の問題とか呼吸の問題とか、身体から入るようなアプローチをしないと、相手を受け入れることの実感がわかないんじゃないかな?」と私が言うと、「そうなの、多分、理屈から入るアプローチだけの限界がありそう。」とCさん。
学習の順序は必ずしも「理論→実践」ではなく、たまに異なる神経を使ったほうがぴったり来るときがあります。「身体を動かす」→「心が変わる」→「表情や声が変わる」というのを利用したのがラバン・システムという演劇の方法があります。コミュニケーションの実践は多分、最終的には理論でなく感情で、感情に伴う身体感覚、五感を使うといった問題がでてくるので、そうした意味では、演劇的手法などを含め、様々なノウハウを統合した教育が必要なんだと改めて思った次第です。
ところで、そんな役者といっしょのロールプレイに興味のある方のリクエストが実現しました。
「ロールプレイ特化講座」
日時: 2009年8月22日(土) 10:00~17:00
会場: 早稲田総研インターナショナル本社 5階会議室
HP:http://www.quonb.jp/seminar/090403.html
2009年5月10日 12:43
去年の5月ばっさりと黒髪を切って、ショートボブにした鈴木有香です。理由は古典的ですが、大失恋でした。決定的な瞬間は背骨の筋が抜け、直立できない状態で友人からハルシオンという睡眠薬をもらって無理やり寝ました。
だけど、毎日続く研修の日々、「相互尊重が大切」、「相手のニーズを理解して」なんて言いつつ、自分とあの人のことを考え、涙を抑えて研修を続けていました。まあ、受講生には悟られない程度に教えていたのも教育者としての強い職業意識なんですが・・・。
去年は研修三昧で忙しく、その忙しさでなんとか忘れようとしていたんです。
そんなときに、セクハラに遭遇しました。
東京の某銀行でセクハラ研修をやっていた私、日本で私にいい寄るオトコはいないと高をくくっていた私、また研修講師の立場でいけば、そういうことはないだろうという油断・・・。
研修後の飲み会で、多分、アイコンタクトの問題について話していたとき、いきなりキスされてしまったんです。唇に!!
私は教育者というアイデンティティが強いのでその場で、自分の当惑以上に教育者として振舞いました。無意識ですが。
でも、個人としてのパーソナル有香ちゃんは完全に崩壊状態。だって、私の知っている唇はあの人以外ありえないわけで、その人とはもう会えないだろうし、その感触が汚されるようで、自分の大切なものが壊れてしまった感覚。そして、一週間知らない人の唇の感覚が残りました。どんな謝罪もそれは癒せないものです。
もう一方で、そのときの飲み会参加者や主催者が誰もキスをした人に明確な注意や叱責をしなかったことが研究者としての私の驚きでした。はっきりいえば、コンフリクト回避のストラテジーを使ったんですよ。
「これは個人の問題ではない、組織レベルの問題だ。」とパーソナル有香ちゃんとは別の私が分析しています。この問題はまさにジョディー・フォスター主演の「告発の行方」という映画が提起する問題と同じ深刻さです。
研究者としての私はキスした本人に怒りはありません。しかし、その後の対応を含めて、まだ、その組織の文化と意識の問題が深刻であると判断しています。
結局、教育者有香ちゃんは教育者として対処しましたけど、パーソナル有香ちゃんは傷ついたままでした。
でも、最近パーソナル有香ちゃんを力づけて、癒してくれる人が出てきて、ようやくその唇の思い出が消えてきました。また、髪を伸ばしたいなーとかやっと思えるようになりました。
2009年5月 3日 11:32
小学校のとき、カンニングして理科の成績が「5」から「3」になったことのある鈴木有香です。
なんで、カンニングしたかというと、その先生、理科のまとめで45分の授業時間いっぱい指導書のノートのを黒板に書き、それを生徒に写させていたからです。社会も算数もそうしていました。だから、先生が指導書を丸写しして話すなら、私がテストの答案を準備して写しても同じじゃないかという反抗心でした。
2ヶ月くらい前、あるワークショップで「みなさん、聞くことの授業を受けたことがありますか?」なんて質問をした先生がいました。うーん、そんな名前の授業、日本でもヨーロッパでもないでしょう。答えは「いいえ」を先生は期待していました。でも、「つまらない授業を眠らず聞きながら、ノートをとる」という高度なスキルの養成は日本の学校教育の基本だから、そういう意味では「聞くこと」の授業を受けたとも言えると思った私。
(このように授業の表の目的にはならないけど、結果的に学ばせようとしている裏の目的を教育学では「潜在的カリキュラム(hidden curriculum)」といいます。)
ここで私が問題にしたいのは、「聞くこと」の定義もしないで、先生があいまいな質問をしたことです。はっきりした定義のないままに、受講生に質問しても受講生はなんと答えたらいいかわからないのに、教師自身の脚本に添った返答を期待する教師の傲慢さに腹が立ちました。だって、日本の学習者は本当に「忍耐強く教師のわからない話を黙って聞く訓練」はしっかり受けていますもの!!
そして、悲しいことに教室でこんなことを言う受講者に出会いました。「本当にXXX(科目の名前)は難しいですよね。私は先生の授業をもう3回も受けているんですが、まだ分からないんです。本当に申し訳ないけど、がんばります。」とっても真面目な50代くらいの方の発言です。
「違うだろう!! 3回も授業を聞いてわからない授業というのは、教師の教え方が下手だということだ!もっと、怒れ!!」というのがファシリテーター歴20年の友人、そして教授方法やら教育方法を研究してきた私の意見です。
だいたい、優れた寿司職人は厳しいお客さんに育てられる、下手な役者は批評家や観客の反応で成長していきます。教師もそう、生徒や受講者の反応から自分の教え方に疑問を持ち、説明や提示のしかたを工夫する、学習者が学びやすいように環境を設定し、質問を工夫する。それが職業人の倫理じゃないかと思います。
それなのに、寿司職人にクレームが言えても、専門家とか教師のお言葉をありがたく頂戴してしまう私たちというのも問題だと思いました。
人間、神様じゃないのだから、一人が全部の正解を知っているわけじゃないという原則に照らせば、教師が言うことにも間違いはあるだろうし、知らないこともあります。
それを教室にいる全員で受け止め、その場で意見交換をしながら教師、受講者を含めてみんなで知恵を出し合えば、いいじゃないですか。
これはいわゆる「ミディエーション/メディエーション(mediation)」の基本でもあります。
そうした普通の原則が教室で機能していないことは悲しいことだと思います。
人間として普通と思われることが、教室、裁判所など、「場」が違うだけで行われていないことが多くあります。さあ、どんなことか考えてみてください。