
2009年3月23日 00:42
実は先週末身体の記憶と感覚に関する初体験をしてしまった鈴木有香です。ラッキーにも私はあまりトイレを我慢した経験がこれまでありませんでした。ところが、そんな私に東名高速での渋滞というシーンが先週末、用意されていたのです。
「トイレに行きたい。」そんな軽い感覚を覚えて1時間は経過したころ、その感覚はお腹の重みに変わっていきました。その重みは油断すると蛇口からほとばしりそうな状態です。「有香ちゃん、想像してみよう。天からホースが降りてきて、そのホースが有香ちゃんのお腹から水を吸い出していく。そんなイメージをもってごらん。」と某有名大学の名誉教授K先生。がんばって想像してみるものの、こうしたイメージトレーニングが苦手な私はその「ホースをどこにつけるんだ?」という点で悩みだし、効果はありませんでした。
車に乗っていたのはそのK先生と演出家で声優のCさん。渋滞にはまっても、コミュニケーション学、身体と感性の問題とかで話はもりあがっているので、楽しいのですが、私のお腹の滴たちは退出路を求めています。
そのとき、私の目に入るものは道路沿いの茂みのみです。そして、陸橋などに差し掛かり茂みがなくなると、無性に悲しくなっていました。そうです。万が一の場所しか見えないのです。これは視覚というものがどれほど、自分の目的や欲求によって決められるかといういい例です。これを同乗していた演出家のCさんに話すと、「すばらしい、これこそ感覚器と目的貫徹の統一のいい例だわ。」とおっしゃっていました。
「有香ちゃん、もう油汗がでてきてどうしようもないなら、教えて。路肩を走るから。」とK先生。「あの油汗ってどんなものですか?」と私。実は「油汗」という言葉は聞いたことがあるけど、それを感じたことのない私には「何が油汗か」がわからない。 これは体験や意識したことのないものを識別する、認知することが難しいという1つのいい例でしょう。
「ああ、もうあの茂みにいきたい!!」心でそう思いつつ、30分、しかし300メートルも進んでいない。
後部座席にのっている私の呼吸とか声色から何かを察したのかK先生、出口まで4.5キロメートルくらいのところで、一気に路肩を走ってくださいました。言葉にならない感情を察するスキルです!!
「あー。出口だ!!」と意識した途端、ある種の安らぎと開放感を得た10秒間、私は尿意を感じなくなりました。ところが、出口から一般道路にでるまで、また車の列です。再び、尿意に襲われ、茂みを見てしまう私。「ああ、でも、ここで出たとしても歩けるだろうか?歩いたとたん、全てが出てしまうかも・・・・」とすら思っている私。
幸い渋滞を潜り抜け、Cさんがファミレスを見つけました。「ゆっくり歩いて」とCさんに支えられながら、トイレに直行、子どもがぬれた床を見て「ああ、汚い」と入るのを躊躇している瞬間に部屋に突入。ゆっくり、しかも着実に、下半身への注意は緩めずにジーンズを下ろす。そして・・・・
解放!!!
ところが、事が済んでも、あの膀胱に加わった重みがいっこうになくなっていない。 もう、一滴たりともでないことを何度も確認しているのにも関わらず、お腹への圧力が残っている。
「そうか、身体への記憶は残っているんだ。」
まさに、身体の不思議です。
ちなみに実はK先生もかなり我慢をされていたようなんですが、彼は「僕はどうもあのイメージ戦略が聞いたみたいだった。」とおっしゃっていました。さすがに、デジタルだけでは説明しきれないアナログ的な気功や身体エネルギーなどについても洞察をさらに深められようとしているK先生はある種の意識操作、感覚操作をなさっていたわけです。
それで、今日は何が言いたいかをまとめると、「私たちが意識して脳に取り入れている情報は全く客観的ではなく、自分の身体や心の状態に合わせて限られたものしか見たり、聞いたりしかしていない。」ということです。だから、私の言う事実とあなたのいう事実が違うことって簡単に起こりうるということです。
私が人生の中でこんなに真剣に道路沿いの茂みしか見ていなかったとき、Cさんはラジオの微妙な雑音の入り方を気にしていたし、K先生はナビゲーターが渋滞を示していなかったことを意識していらっしゃいました。同じ空間にいた3人は三者三様に異なる情報を受け取ろうとしていました。