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磯野敦義(昭和61教)「私の早稲田大学時代」

私の早稲田大学時代

                       昭和61年教育学部卒 磯野 敦義

 

 私は在学中に体育局水泳部に所属していました。当時は東伏見に屋外50メートルプールがあり、隣には高さ10メートルの飛び込み台もありました。そこに木造平屋建ての質素な水泳部の寮があり茨城県出身の私は寮住まいで、そこから学校に通っていました。

 1年生の時の標準的な日課は、朝5時に起床。寮の中と外を分担して掃除をします。寮の中や敷地など、掃除個所の分担を週替わりのローテーションで行うのですが、プールサイドには大きな木が何本もあって、秋には落ち葉がどんどん落ちてきます。そのため落ち葉のシーズンは屋外の分担の1年生部員は3時半頃から起きて掃除をしていました。冬も暗く寒く厳しかった記憶があります。

掃除が終わると、6時からプールで練習です。東伏見の屋外プールは5月~9月まで使用し、10月~4月までは文学部にあった屋内プールや近隣のスイミングクラブのプールなどで練習しました。

朝は1時間半で5,000m程練習。学校が終わってから夕刻に約2時間半で8,000m程練習していました。

ゴールデンウィークや夏休み中など年に数回に合宿を行いましたが、合宿の時は1日3回の練習で朝8,000m、午前9,000m、午後9,000mのように1日250,000mから30,000m泳ぐこともありました。今考えてみると1日25kmから30km泳いだ訳ですから、よくやったなと思います。

朝早くから掃除して、苦行を積んで、学問を学び、何か修行僧の生活はこんな感じなのかなと思ったことがあります。

現在の水泳部の選手はオリンピックでメダルを取ったり世界新記録を樹立したりしていますが、私の時代の水泳部は低迷しており、オリンピックに出られる選手は一人いたかどうかで、インカレでは創部以来ずっとシード校だったのですが、初のシード落ちを経験した時代でした。

私自身はどうだったかというと、バタフライの選手で茨城県では200mバタフライで一時高校記録などを持っていたこともありましたが、インカレでは決勝に進む9人には入れず予選落ちのレベルでした。

そのような中、学生生活で一番鮮明に覚えていることは、この生活をしていると学校に行ってもすぐにお腹が空いてしまい、1限目が終わると毎日のように西門を出てすぐのところにある「牛めし三品」に駆け込んでいたことです。

当時はおばちゃん3人ぐらいで営業していましたが、いつも優しい笑顔で迎えてくれました。卒業後も何回か行ってみたのですが、休日や学校が長い休みの時には営業していないので一度も入ることができていません。何とかまた入って「かつ玉牛」でも食べてみたいと思っているところです。

水泳部は思うところがあり、2年生が終わった時に退部したのですが、頑張ることや我慢をすることを学びました。その後はアルバイトをしたり、そのお金で海外放浪の旅に出たり、また違った学生生活もあり、その在学中の経験が現在の生活の礎となったのだろうと思っています。

いろいろな思い出はありますが、思いついたまま書きました。書いている間にもいろいろと思いだしたこともあり、このような回想の機会を頂けて感謝しています。

当時、逆三角形の体型だった私も今では20kg増量の立派なメタボ体型となり、運動不足のおじさんになっています。

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行政書士稲門会

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